デフレは虚血状態と同じだから通貨を発行せよ3
お金とは、貴金属の借用書である。
それを銀行に持っていくと、預けておいた貴金属と交換してくれるはずである。
その場合、銀行とわれわれの間には対等な関係がある。
それは、物々交換と同じだ。
自分が作った大根を持って行って、ピーマンと替える。
それで対等。
しかし、銀行が、いかなる商品の裏打ちもない紙切れを渡してきたらどうだろうか。
われわれは、「それは要りません。ただの紙だから」と拒否できる。
しかし、今の法律では拒否できない。
これは、市場で、物々交換している人々の間で、「銀行だけは、紙切れにハンコを押したものを実物と交換できる」という例外規定を設けたことになる。
これは義務教育と似ている。
校内暴力やいじめがあって、とても勉強できる環境ではないところに通うように命令されて、まったく無駄な時間を使うにもかかわらず、授業料だけは取られるようなことである。
塾や予備校でそんな学校があれば、すぐにつぶれる。
なぜならば、対等な交換が行われないから。
1万円出したら、その出した人に対して1万円分のサービスを提供する義務が学校にある。
義務教育制度の公立学校で、そういったサービスが提供されず、いじめが横行しているならば、それは対等の物々交換が成立していないことになるので早晩崩壊する。
だから、今の制度において、中央銀行と公立学校は、著しくゆがんだシステムになっている。
社会はこういうシステムを許さないから、いずれ調整が行われるだろう。
中央銀行や公立学校の先生に対して「われわれはあなたがたと対等になる権利がある」と主張する人々が増えるだろう。
それは、公立学校の場合、授業のボイコット、私立学校への転学、学校制度そのものの拒否、塾や予備校など私立教育機関やホームスクーリングなどの選択になって現れる。
中央銀行の場合、不換紙幣の拒絶、誰でも一定の金銀の含有率があれば、それを一定の額面価格の貨幣として使用できるとの法律の制定であろう。
みんなが物々交換で対等の立場でものやサービスを交換している中で、一人だけ偽札を差し出して交換しようとする銀行は排除されるだろう。
将来的にまともな社会になるには、銀行券発行量と、銀行のもっている預金額との厳密な摺合せが制度化されなければならない。
同じように、われわれも、自分が使用する金銀貨幣に混ぜものが入っていれば、処罰の対象になるだろう。
聖書の時代には、このように商品貨幣が流通し、神は、その貨幣に混ぜものを厳しく禁止された。
あなたがたはさばきにおいても、ものさしにおいても、はかりにおいても、分量においても、不正をしてはならない。(レビ記19・35)
2012年12月4日
ホーム