1.
私はいつでも物事を大きく、高い視点から見るようにしている。
かといって細部を無視するわけではない。
細部の知識を得て、大きな図を描くのに利用する。
この「大きな絵から細部へ、細部から大きな絵へ」の認識方法は、聖書的である。
わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。
目の見えぬ手引きども。ぶよは、こして除くが、らくだは飲み込んでいます。(マタイ23・23-24)
パリサイ人は細かな律法にこだわり、「正義とあわれみと誠実」をおろそかにしていた。
「ぶよは、こして除くが、らくだは飲み込」んでいた。
つまり、全体が見えなくなっていた。
イエスはここで「全体を見る」ことを命令された。
しかし、同時に「ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません」と言われ、細部にもこだわるべきであると言われた。
「総合と個別の両立」は、三位一体の「一と多」の原則に基づく。
物事を総合的に見るのも大切だし、個別の事柄を具体的に見るのも大切である。
被造世界は、比較的単純な元素からできている。
水素原子や酸素原子、炭素原子などが組み合わさって多様な物質が生まれる。
多様な色は3原色あれば表現できる。
昔、街角の大画面は白黒だったが、青色発光ダイオードができて3原色が揃い、カラー表示が実現した。
この世界が「単純と多様」でできているのも、神が三位でありながら契約的に一体であるという原理に基づいている。
被造世界は、神を啓示している。
神が統一体であると同時に多様であることを指し示している。
2.
国際社会は、文化や身体的特徴において多様な民族によって構成される統一体である。
それゆえ、国境をとっぱらって単一の政府にまとめようとしているイルミナティの試みは挫折する。
生物が多様な細胞によって統一体を形成しているのと同じように、国際社会も多様な国の集合体であるべきだ。
移民による民族国家破壊が進んでいるが、呪われるべきである。
皇室の中にイルミナティが侵入し、女系天皇制にし、日本を脱民族国家化しようとしている。
3.
民族や国家は多様であっても、「統一の倫理」に従うべきである。
国際社会は多神教に基づいてはならない。
多神教は、多元主義なので「地域や国によって道徳律が異なる」と教える。
違う。
主権者は聖書の神おひとりである。
だから、どの民族であっても、どの国家であっても、十戒に従うべきである。
それゆえ、国際社会には、「民族浄化する国」に攻め込む権威がある。無辜の人々の命を大量に奪う政府があれば、それを軍事的に倒す権威がある。
国際社会は、神の御前に倫理的責任を負う有機的統一体であるので、一部に異常があれば、それを治療すべきである。
あなたの隣人の血のかたわらにむなしく立ってはならない。(レビ19・16)
http://biblehub.com/interlinear/leviticus/19.htm
つまり「人が殺されているのを見逃さず、救い出せ」という命令である。
多神教の世界観では、このような「国際社会による国家への介入」という思想は生まれない。
なぜならば、それぞれ主権者なる神が異なるので、異なる道徳律が存在するからである。
「一と多」の原理がない世界は「カオス」か「多様性を嫌う全体主義」のいずれかに支配される。
4.
教育は「一と多」の原理で行うべきである。
両親や教師は、子弟や生徒に対して「普遍的倫理」である十戒を強制すべきである。
これについて、いくら厳格であってもよい。体罰も許される。
「人のものを盗む」「殺す」「むさぼる」「嘘をつく」などを犯す子弟や生徒に対して罰を下すべきである。
そこにおいて厳格であっても、子供は歪まない。
われわれは、神を信頼して毅然として罰を執行すべきである。
しかし、子供が職業や趣味において何を選択するかについて自由であるべきである。
個性を重視すべきである。
「倫理について厳格、個性について自由」の教育理念を確立すべきである。
5.
ヴァン・ティルは次のように主張した。
被造物の歴史に関して、神の包括的な事前解釈及び事前決定は、それを理解するための前提条件である。
http://www.proginosko.com/docs/cvt_ap_comp.html
つまり、神があらかじめ決定され、解釈された歴史だけが正しい歴史であり、人間が正しく歴史を理解しようとするならば、神の解釈された歴史を学ぶ以外にはない、ということである。
歴史学者が聖書を無視して解釈した歴史とは、本当の歴史ではない。
たとえば、ソ連の指導者は共産革命を善と見るが、神は悪と見る。
われわれは、ソ連の指導者の歴史解釈をしりぞけ、神の解釈を受け入れるべきである。
この「認識論的原則」から逸脱するキリスト教はキリスト教ではない。
聖書を前提とし、聖書の教えを絶対的権威として受け入れない科学者や歴史学者をクリスチャンの学校の教師としてはならないのである。
これは、「一」である。聖書を絶対的権威とするのは、絶対に曲げてはならない原則である。
聖書を前提としたうえで行われる科学的・歴史学的研究は「多」である。
6.
この「一と多」の原則を無視して行われるあらゆる人間の営為は、最終的にことごとく失敗する。
倫理に関して放任で、学校や職業の選択において厳格な親は、子供の心をゆがませる。
ソ連や共産主義国において、倫理は放任で、政治や軍事において厳格である。
職業倫理がゆるいので、製品は粗悪である。まともな産業が育たないので、国に底力がない。
はりぼての国家を維持するために、スパイや密告者を大量に動員し、軍事力をつける。
そのため、疲弊してつぶれてしまった。
中国も同じようなものである。中国産の製品が粗悪であるという評判が定着しつつある。高速鉄道を売り込むために賄賂を使ってきたが、仕事がいい加減なので、世界の国々は中国製の新幹線を忌避するようになっている。
「一と多」の原則が確立しない文化や国家は、「締めるところで締めず、緩めるところで緩めない」ので長続きしない。
結局、神の啓示に逆らうとうまく行かないのである。