ピーター・ワグナーは、晩年に再建主義者になっていた
フラー神学校教授だったピーター・ワグナーは、晩年に再建主義者になっていた。
以下、「統治神学」は再建主義を指している。
「統治神学」
社会変革の土台を最もよく据える実践神学は統治神学です。ときに「キングダム・ナウ」と呼ばれます。その歴史はR・J・ラッシュドゥーニーとアブラハム・カイパー、そしてジョン・カルヴァンにまで遡ることができます。現在に適用するための特筆すべき開拓的な試みはボブ・ワイナ一、ライス・ブルックス、デニス・ピーコック、その他の人物によってなされてきました。統治神学という言葉は残念ながら、つい最近まで荒波を乗り越えて来なくてはなりませんでした。実際私の友人の多くは、本書のタイ卜ルに支配という言葉を使わないように説得しようとしました。それはタイ卜ルのせいで本すベてが拒否されるのでは、という恐れによるものでした。これらの反対がどこから起因しているのか、ある程度は理解していると思います。
たとえば一つの反対勢力は、文化的使命よりも伝道的使命の優越性をいまだに主張する人々です。このクリエイティブな議論のいきさつは、伝道的使命が優先事項であるという私自身のかつての主張も含めて、前章にて注意深く述べました。私自身がかつてそのような立場をとっていたため、それらの立場をまだ主張する人を理解し敬意を表したいと思います。
終末
二つ目の反論は、私たちの終末に対する見解に関連する終末論的なものです。確かに統治神学は終末論的には混乱を起こさせるものです。なぜでしょうか?私の世代の多くは、終末について「艱難前、千年王国前」という見解を教え込まれました。私はスコフィールド聖書に慣れ親しみ、すべての真のクリスチャンが天に引き上げられるまでは、世界はますます悪くなっていくだろうと説いたウィルバ一・M・スミスのような人の教えを受けました。そして取り残された人々は七年間の艱難を通り、イエスが白い馬に乗って戻られ、私たちを主と共に千年治めるように導かれるまでは、反キリス卜が支配を得るといいます。これが私たちの栄えある望みでした。
一方で、もし神が積極的な社会変革に関わるよう私たちに命じておられると信じているなら、異なる見解にたどり着くことは明白です。社会がますます悪化していくという考えはもはや受け入れません。なぜなら神の命令は社会を変えることであるといま信じており、それであれば社会はますます向上するのです。私たちクリスチャンは「地球から離れ去りたいという過度の欲求」を捨て去る必要があるというジム・ホッジスに同意します。千年王国に関する諸説について独善的になり過ぎないようにしてくれます。私はしばしば、自分が千年王国前再臨説、千年王国後再臨説、または無千年王国説なのかもはや分かりません、と冗談を込めて言います。私は最終的には物事がすべてうまくいく(pan out)であろう信じる「総千年王国」(panmillenial)説を支持することにしました!
私は最近まで信じていなかった終末論を真剣に告白します。それは従来のレフ卜ビハインド未来的見解です。しかし私が実際信じるまでは公言することはできませんでした。ハロルド・イバ一リとマ一テイン・卜レンチによるVictoriousEschatology(勝利の終末論)を読んだときに転機が訪れました。終末論は統治神学にぴったりと合いました。イパーリと卜レンチは「イエスの再臨前に教会は栄光、一致、成熟の中で立ち上がる。御国は地上を満たすまで成長し前進する。」と言っています。
勝利の終末論は、「のちの時代」や「終わりの時代」に関する聖書的預言が、紀元七十年のエルサレム崩壊の時、文字通り成就したという説得力のある主張にします。終わりの時代は古い契約の終わりと新しい契約の始まりを刻みました。イエスは将来(マタイ24:36-25:46参照)文字通り再び来られますが、マタイ22:4-34のしるしのどれ一つとして再臨前に現れるとは予想されていません。なぜならそれらはもうすでに起きたからです。専門の神学者らには、終末論の部分的預言既成説論的見解として知られており、私個人もそのように認識しています。
境界線を越える
しかしある人にとっては、これは厳格な伝統的教義の境界線の外に出るものでしょう。例えば有名な教団であるアツセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、前千年王国説に堅く立ち、ゆえに彼らが統治神学を反対することに至らせるのです。教団の出版物の一つに、長老総会による「不承認の逸脱した教え」というシリーズのもとで統治神学を載せました。
同じ反論はジョン・ストッ卜からも上がりました。ロ一ザンヌ契約の彼のコメントは、次のように記述されました。
教会の期待または希望とは実際のところ何か?最近ある人は、世界がますます良くなることを期待すべきだと語り、物質的繁栄の状況を保つこと、国際平和、社会正義、政治的自由、個人的満足などが御国の確立と同じものとみなしているかのようだ。…しかしイエスは、全て安定して良くなるとは全く期待しておられない…これは聖書によるところのクリスチヤンの希望ではない。
統治神学に対して一時の間、大きな障壁となった三番目の反対意見について触れなければならないことを残念に思います。残念ながら統治神学の立場に立ち、声を大にして前面に出ていた信奉者たちは、自身の不道徳な行為が露見し社会からの深刻な非難にさらされました。この件との因果関係を明確に根拠付けるのは難しいのですが、この不名誉な問題のために多くのクリスチヤン指導者らは、当然のことながら統治神学から遠ざかりました。
新しい季節
統治神学の主張者たちが、一時荒波を越えて行かなければならなかったのは、もはやそれまででした。私たちが今新しい季節にいることを確信しています。教会のリーダ一の多くは、御国の価値観に沿った社会を変革するというチヤレンジにもこれ以上しり込みしません。荒波は収まりつつあります。
これは個人的な意見ですが、私たちが最もよく前進できる方法は、統治神学という言葉を捨てるのではなく、それを確認して回復することだと思います。最も頻繁に提唱される代案は御国神学という言葉です。御国神学は良いのですが、私は統治神学をより強く、より実践に基づいた、より積極的な、より聖書的に総合されたものと見なしています。御国神学は、牧師的な意味がある場合が多い一方、統治神学は使徒に寄り掛かっています。これは御国が統治神学の神学的土台であることを否定するものではありません。私たちの祈りは「御国が来ますように。御心が天で行われているように地でも行われますように」というものであるべきです。
創世記一章
統治神学のポイントは聖書の最初の章に始まります。神の本来の書き記された御思いは、人類を創造し、そして彼らが「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように」(創世記1:26、強調筆者による)というものでした。このため統治神学は、御国神学よりももっと聖書的かつ総合的であると考えるゆえんです。御国は新約聖書のテーマであり、支配は旧新約両方から来ています。
神がアダムとエバに言われた最初の言葉は、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。(すべての生き物を)支配せよ。」(創世記1:27、強調筆者による)。この節の重要性を見逃してはいけません。神は地球を造られただけでなく、治める者としてアダムとエバを筆頭に、人と共に支配を打ち立てられました。神は御名によって治める全権威をアダムとエバにお与えになりました。しかし彼らは操り人形ではありませんでした。彼らは自由意志をもった存在でした。どういう意味でしようか?それは彼らに選択肢があったということです。神は彼らに強制されませんでした。人は支配することができた反面、その支配権を手放す権威もあったのです。
私たちはこの点をよく見逃してしまいます。それは私たちが創造の話を十分知っていると思うからです。創世記二章は支配に触れず創造の詳細について書かれています。三章で蛇が現われるまでには、私たちは支配について忘れ去ってしまっているかも知れません。しかしそれは誤りです。なぜならそれこそサタンが欲していたものだからです。私たちの伝統的な解釈は、サタンはアダムとエバの神との関係を壊したかったこと、そして原罪が入り込み、全世代にわたって罪が引き継がれ、人は御国ではなく地獄に行くしかなくなってしまったというものです。もちろんそれはサタンの目的の一つでしたが、より優先とされた目的とは神がアダムに与えられた地を従える支配権を奪うことでした。(C・ピーター・ワグナー『神の統治!天の御国の原理に従った行動がどう世の中を変えることができるのか』57−62ページ、Living Waters Publishing House)
何年もの長い間、教会は世の枠組みの中に入り込み神の御国を作り上げようと腐心してきましたが、最低限の小さな社会変化しか起こりませんでした。本書の論点は変化です。
イエスが弟子達に約束したより大きな働きが、実際に我々の視界に入り始めているのです。この認識が次第に大きくなるにつれて教会のリ一ダーたちから明確な声があがってきています。社会変革は神の民にとって現代の最重要課題である。
このような機会は今までにありませんでした。教会は今こそ立ち上がるときであり、神の御国のための行動を起こす時です。新しい改革の先駆者に加わってください、そして自分の周りの世の中を変えるのです。
2017年12月1日
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