「再建主義は今、何人いるんですか。」
「あなたのことを〇〇派では相当嫌っているようですよ。」
「みんなから孤立して大変ですね。」
こういうことを言う人は、人を頼っている。
人が救い主になっている。
イエスを捨てている。
人をなぜ頼るかというと、信仰による冒険ができないから。
御言葉を信じて冒険する体験を何度も積まない限り、信仰は成長しない。
神と自分との間に太いパイプがないので、人間の目が気になってしかたがない。
神はわれわれに適度な試練を与えられる。
過剰な試練を与えられている人など一人もいない。
あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(1コリント10・13)
われわれが子供に何かを教える場合、小学生に突然中学生の問題を与えない。
それと同じように、神もわれわれが乗り越えられないような課題をお与えにはならない。
課題が与えられたら、それは、乗り越えるためであって、回避するためではない。
われわれにとって必要だから与えられているので、その課題をこなす必要がある。
「人間的な力によるのではなく、神の言葉によって解決する」ことが求められる。
妥協すると、信仰は未熟なままである。
信仰が未熟なままであるということは、それだけ恐怖が多いということ。
対人恐怖、幽霊への恐怖、社会的権威への恐怖、世間の評判への恐怖・・・。
恐怖が多ければ多いほど、不自由である。
人からの報いを要求するのも不自由な証拠。
自己憐憫や他人からの同情を強く求めるのも不自由な証拠。
普段は立派なメッセージを講壇から語っている牧師が、いざ現実的な問題になると信仰そっちのけの解決法を採用するのを何度も見てきた。
反対者について嘘を言う、中傷する、社会的に信用を失うような情報を流す、…。
信仰があれば裁きを主に委ねることができるはず。
中国人や韓国人が海外で日本人の悪口を言って、中傷しているが、無駄である。
神がこの世界の主であるので、真理が勝つ。
正義を行う人が最終的に得をする。