一契約主義には、行為義認の教えが入り込む隙がある
1.
正統的な神学は、二契約主義である。
二契約主義とは、聖書契約には2種類存在するとする説である。
(1)アダム契約(業の契約)
(2)キリスト契約(恵みの契約)
ノア契約、アブラハム契約、モーセ契約、ダビデ契約はすべてキリスト契約に含まれる。
(1)は、アダムが自力で救いを獲得する道である。
アダムは神の命令を忠実に守り、永遠の命を自力で獲得するように命令されていた。
しかし、失敗してしまった。
そのために、イエス・キリストが現れて、アダムが行うはずだったすべての義務を行い、そして、人の罪の責任をすべて背負って十字架にかかり処刑された。
キリストの地上の使命は2種類であった。
(1)律法をすべて守り、永遠の命を獲得すること。
(2)十字架にかかり、信じる者すべての罪の刑罰を身代わりに負うこと。
イエス・キリストを信じる人々は、この2つの業績を自分のものにすることができる。
すなわち、キリストを信じるならば、これらの2つをあたかも自分が行ったかのように、神にみなしていただけるということである。
これを恵みの契約という。
恵みの契約に入るには、信じるだけでいい。
行いは必要ない。
イエス・キリストを救い主として信じる信仰があれば、誰でも永遠の命を受け取ることができ、罪の刑罰を受けることがない。
アダムが堕落してから、すべての契約は恵みの契約である。
ディスペンセーショナリズムは、モーセ契約は「業の契約」であるというが、あれは、恵みの契約である。
モーセ契約の中心は、幕屋礼拝における動物犠牲を通じての罪の贖いである。
2.
フェデラル・ヴィジョンは、一契約主義であり、異端である。
彼らは、アダム契約も恵みの契約だという。
たしかに、アダム契約にも恵みがあった。しかし、その恵みとは 超越者なる神が被造物の人間に近づいて契約を結んでくださるという「距離の恵み(grace concerning the distance)」であって(グレッグ・バーンセン)、救いの恵みではない。
フェデラル・ヴィジョンは、アダム契約も恵みの契約であり、すでに贖いはあったという。
3.
二契約主義を捨てることによって、どのような影響があるのか。
以下の3点があいまいになる。
(1)キリストが受肉しなければならなかったこと。
(2)キリストが律法を完全に成就しなければならなかったこと。
(3)キリストが信じる者の身代わりに処刑しなければならなかったこと。
アダム契約を恵みの契約の中に入れることによって、キリストの存在のありがたさが薄まる。
たとえば、次の例を考えてみよう。
A.
ある有力政治家の息子で、偏差値25の人が1年後に東大を受けて合格しないといけないとする。
絶対に無理なのだが、しかし、ある特別な人が身代わりに試験を受けてくれると言った。
そして、大学側は身代わり受験を認める方針を発表した。
(こんなことありえないのだが。)
B.
同じ偏差値25の人が1年後に東大を受けて合格しないといけないとする。
しかし、その人のために東大側が配慮し、その年の入試には一芸入試が導入された。彼は、プレゼンが得意であることが東大側にはわかっていたからだ。
さて、このような状況の中、ある特別な人が彼の身代わりに試験を受けてくれると言った。
そして、大学側は身代わり受験を認める方針を発表した。
AとBのどちらにおいて、この人の喜びは大きかったか。
もちろん、Aである。
苦手な学科試験だけで勝負しなければならない状況で助け船が現れるのと、学科試験だけではなく一芸入試でも勝負できる状況で助け船が現れたのでは、前者のほうが「救われた感」は大きい。
アダム契約は「アダムが独力で道を切り開かねばならない契約」であった。
失敗したので、キリストが身代わりにやってくれた。
アダム契約は「アダムが独力で道を切り開かねばならない契約」ではなかった。そこに神の恵みがあった。
失敗したので、キリストが身代わりにやってくれた。
2017年4月18日
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