1.
ある時期、韓国人の牧師と知り合いになった。
この牧師はメッセージで「掟ではありません。掟から解放されるべきです」とメッセージしていた。
たしかに聖書的ではない掟から解放されるべきである。
たとえば、酒とたばこは神に創造されたものであるから、禁酒・禁煙の掟からクリスチャンは解放されるべきである。
もちろん、酒については、酒に酔うな、とあるので注意を要する。
また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。(エペ5・18)
御霊に満たされるとは、御霊に支配されると同義である。
「満たされる」の原語プレーローは「完成する」や「成就する」という意味である。
われわれは、御霊の思い、考え、行動様式によって「完成される」べきである。つまり、御霊が思う以外のことを考えないように支配されるべきである。
酩酊は思いや考え、行動様式が普段と違うものに変える。
意思の力が弱まり、自分が生まれもっている堕落した性質が現れやすくなる。
御霊に満たされるならば、神の考えや思いに完全に支配され、酒に酔うならば、自分の堕落した性質に完全に支配される。
つまり、ここでは「酒に溺れるな」と教えているのである。
飲酒そのものが禁止されているわけではない。
もし飲酒そのものが禁止されているならば、水をぶどう酒に変えて人々に飲ませたイエスは罪を犯したことになる。
禁酒・禁煙のような極端な禁欲主義からわれわれは解放されるべきである。
嗜好品は、我々のストレスを軽減するために与えられている。
神が創造されたものを、罪として見ることは、神ご自身を断罪することにほかならない。
今の福音派の「掟から解放されるべきだ」という教えの起源は、ディスペンセーショナリズムである。
それは聖書の法すらも敵視する。
われわれが「聖書法によって世界を統治すべきだ」というと「神裁政治だ」という。
神裁政治の何が悪いのか。
実際、世界は神に支配されているのだ。
われわれは、できるだけ神の御心に合わせて地上を統治すべきである。
法そのものに対する敵視は、聖書法を与えた神に対する敵対行為である。
イエスは、マタイ5章において「山の上から」弟子たちに語られた。
この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。(マタイ5・1)
これは、神として掟を与えたことを意味する。
山頂は至高者なる神の象徴である。
モーセは山頂の神から十戒を受けた。
「新約になって法は廃止された」というような教えにいかなる聖書的根拠もない。
パウロは信仰は律法を成就すると述べた。
それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。(ローマ3・31)
信仰は、律法を確立する。
つまり、律法をもっと強固なものにするのである。
したがって、新約時代に律法は旧約時代以上に「守るべき掟として強固なものに変わった」のである。
旧約時代における律法が豆腐であれば、新約時代におけるそれは鉄である。
イエズス会の司祭であったインマヌエル・ラクンザが作り上げたディスペンセーショナリズムは、クリスチャンから律法を奪い、豆腐の硬さもないようなものを与えてきた。
それが、今日のキリスト教の指導者がなぜノンクリスチャンでもやらないような不正行為を行うのかの理由である。
私は、セオノミー(神の法)を信じ、それを教会付属の神学校の論文に書いて牧師に提出して許可を得て、卒業し、任職されたにもかかわらず、その同じ理由で罷免されそうになった。
牧師がセオノミーに基づいて説教するのを嫌っているとわかったので、退職を願いでると、長老会を開くので出席するようにと言われた。
当日その場に出ると、(たまたまその前に開かれた受難日礼拝に出ていた長老2人に声をかけ「今日長老会がありますが」というとびっくりし、出席した人々を除いて)長老は一人もおらず、牧師たちだけがいた。
「君の考えを説明したまえ」と。卒論に書いたのと同じことを述べた。
「結果は長老に電話で意見を聞いた後に君に伝える」と。
「え〜〜!」と驚いた。
こんなことをするのか!
長老会の後に、同席していた韓国人の牧師が「あなたは、教会の教えと異なるものを述べ伝えたので、罷免されるのが当然だ」と言われたが「私は卒論で意見を書いた上で採用されたし、その後も牧師に許可をもらっていたので」というと「えっ!」と驚いていた。
他のクリスチャンから、もっとひどい事例をいくつも聞いた。
組織を維持するためなら、謀略でもなんでもするという印象がある。
結局、神を恐れていないのである。
私は、完璧な人間でもなんでもないが、少なくとも神の裁きを恐れる。
だから、いくら気分が悪くても、陰謀を企んで人を貶めるなど、むちゃくちゃな不正はできない。
もし謀略で人を組織から追い出しても、その組織そのものが呪いを受けるのでひどい結果になると考える。
考えが合わない人と何人も別れてきたが、それは聖書においてペテロとパウロが別れたのと同じようにしてきた。
つまり、異端でもない限り、相手を実名で告発するようなことはしない。
神の法の枠外に出るようなことをしたら必ず裁かれる。
とくに神の国の活動にたずさわっている人々の不利益になるようなことをしたらひどく呪われる。
こういう教訓を若い時期に得られたので、感謝である。
聖書は一貫して「神の法に対する違法者は2、3度戒めてから放逐せよ」と述べているので、どこまでも追いかけて謀略によって復讐するというようなことは、恐ろしくてできない。
2.
「掟ではなく愛です」の類の説教は、受けがいい。
だから、人を集めたいならば、そういう甘い教えを説いたらいい。
しかし、それは結局、自分を滅ぼすことにしかならない。
聖書のとおりに語るべきだ。
3.
神社や仏閣などに油を撒くような不法を働くのは、クリスチャンではない。
それは、カルトである。
人の嫌がること、その国の法律に違反するようなことをするような教団は、愛のふりをした敵意である。
ディスペンセーショナリズムの無律法主義は、人々にキリスト教の悪宣伝をしているのである。