再建主義は、聖書的であろうとする。
聖書は、禁欲主義ではない。
無報酬の労働が清く、報酬の労働が穢れているなどという区別はない。
報酬を支払うことも、それを受け取ることも、当然のこととして書いてある。
聖書では、金利も認められている。
金儲けを悪とみるのは、異教である。
教会の奉仕も同じである。
教会での労働だけが無報酬でなければならないなどと書いてない。
教会が他の教会から講師を呼んだならば、その講師に報酬を払うべきだ。
聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない」、また「働き手が報酬を受けることは当然である」と言われているからです。(1テモテ5・18)
「すべての」労働には、報酬を支払うべきだ。
受益者は、その利益の対価を払うのは当然である(ただし授益者が対価を求めていない場合はその限りではない)。
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この世界は、ギブ・アンド・テイクで成立している。
自分が利益を受けていながら、相手に報酬を払わなければ、そのツケは必ず自分に呪いとなって降りかかる。
万引きをやったならば、社会的制裁を受けるのが当然。
そして、その対価を払うように強制されるのが当然。
1000円の商品を盗んだら、その1000円を支払うまで自由を失う。
聖書では、5倍の償いを求められる。
私は、2か月間の給料の遅配の後に、トンズラされたことがある。
このダメージはその2か月分の給料だけにとどまらない。
貯金があれば、カバーできるが、貯金がない場合、他から借金をせざるをえない。
この借金が命取りになる。
私は経済的に破壊され、信用を失った。
だから、盗みに対しては対価を支払うだけでは足りない。
5倍の償いをして当然である。
社会は、ギブ・アンド・テイクで成立している以上、一方(A)がギブをしなければ、他方(B)は損失を被る。Bも他者(C)からテイクされるので、Bがギブできなくなれば、Cが負債を背負う。
つまり、ある一人の無責任者(A)がギブを怠ることによって、BとC…と、連鎖的に社会に損害が広がる恐れがある。
泥棒が社会において大きな影響力を持つのはこのためだ。
罪は、それがわずかな人数が犯したとしても、影響力は大きい。
それゆえ、聖書法では、償いが義務づけられている。
Aがギブできない場合には、Aがギブできるまで拘束され、負債を支払うまで強制労働しなければならない。
このような「穴埋め」が行われないような法体系は欠陥である。
禁欲主義のシステムは、いかに清らかに見えても、それは邪悪である。
厳密にいえば、「無償の愛」とか、この世界には存在しない。
神ご自身ですら、罪人が作った負債を請求される。
罪を犯して、被造世界を破壊した場合には、その破壊の程度に応じて、穴埋めを要求される。
もし穴埋めを求められないのであれば、イエス・キリストの十字架は不要である。
神は原状復帰をわれわれに求めておられる。
われわれが犯した罪の代価を支払うまで絶対に赦されない。
その代価をイエス・キリストが十字架において支払ったので、われわれは支払いを免除されるが、支払い義務そのものは存在する。
このように神の創造秩序は、徹底したギブ・アンド・テイクで成立している。
死刑廃止運動は、禁欲主義である。
一方が犯した罪の完全な支払いを免除するからだ。
人の庭に穴をあけたら、その穴を埋めてまっ平にしなければならない。
死刑廃止の法秩序は、穴をあけたままにする。
殺された人が一方的に忍従するシステムである。
遵法者が違法者よりも不利になるシステムである。
万引き犯のほうが被害にあった店よりも有利になるシステムである。
これは、法秩序そのものが「自分を破壊してください」と言っているようなものだ。
法秩序を維持する最低条件は、「遵法者が違法者よりも有利になる」ことである。
だから、殺人犯を処刑してはならないというならば、復讐法を認めなければならない。
その殺人犯を殺しても罪に問われないシステムにしなければならない。
殺人者のほうを庇うことによって、その法秩序は、一般市民の命を危険にさらすことになるのだから、一般市民にその殺人者を殺す権利を与えるべきだ。
殺人が利益にならないようにする措置を講じる権利が市民にはある。
禁欲主義は、ギブ・アンド・テイクの原則を犯す。
そのような社会は崩壊の運命にある。