教えをいいかげんにする民族は自滅する
神の国を求める場合、経済的に自立していないとなかなか進まない。
もちろん、ヨセフのように雇われていても仕事はできるのではあるが。
雇われの場合、そのボスの計画に奉仕するという形になるから、直接に神の国のために働くことはできない。
私は、クリスチャンが本当に力をつけるには、起業する必要があると思う。
起業家としての才能のある人はどんどん起業してほしい。
成功してお金が手に入るならば、神の国にとって必要な事業に献金できるし、自分のビジョンを実現化できる。
今の教育は、亡国の教育であり、民主党や社民党の政治家ような売国奴を育てる教育だ。
神の国は、家族、近隣社会、国家を土台として成り立つ。
家を建てるときに、砂の土台の上に建てる人がいるだろうか。
家族や国家がしっかりしていなければまともな家を建てることはできない。
神の国の根本の土台は聖書だが、聖書の上にさらに聖書的な社会が必要である。
日本が中国共産党に支配されたら神の文化建設どころではなく、信仰を維持するのさえおぼつかなくなる。
だから、われわれは、家族や国家を破壊するような政治家を選挙で落とさねばならない。
聖書的な社会とは、(1)正義を確立する警察や軍隊や裁判所、(2)生産を行う家族と企業、(3)教えをつかさどる教会からなる。
この3つの要素は、すべて聖書の土台の上に立つ。
だから、聖書信仰が崩れたらこれら3つも崩壊する。
聖書は神の言葉であり、前提であって、科学的・人間的な証明を必要としない自律的な知識である。
聖書の一点一画たりとも地に落ちることはない。
地に落とす者を神は呪われる。
われわれは、この知識の堅固な土台から出発する。
職業に貴賤はないが、しかし、重要性において、神学者や牧師を超える職業はない。
だからイスラエルにおいてレビ人は格別に扱われた。
レビ人をないがしろにすることは、社会の死を意味する。
キリスト教界において、神学を軽視する風潮は、サタンが作ったものだ。
「聖書が何を言おうと関係ない。」という考えを広めたのはサタンである。
こういう惑わしにのったために、キリスト教は土台を失った。土台が砂のようになったので、傾きつつある。
神学者や牧師を軽視することは、自殺である。
そのような社会は自殺しようとしているのである。
そして、社会の自殺と同時に、自分も滅ぼすことになる。
教えがいかに重要であるかを日本人は仙谷由人を通じてよくわかったと思う。
日教組の左翼教育を受けた人間は、本気で日本をつぶしてもいい、と考えるようになる。
中国に支配してもらったほうがいいと考えるようになる。
チベットや東トルキスタンがどうなったかを知っているにもかかわらず。
若いときに学生運動をやった人々はもう頭が完全に石のようになっているから、共産主義に疑いを持たない場合が多い。
恐ろしい話だ。
教えについていい加減で、それに金を惜しむような民族は自分のまいたものを刈り取る以外にはないのだ。
2011年2月5日
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