近代哲学は、「神からの自立」を目的としている。
なぜならば、背後に悪魔教があるから。
近代哲学の祖ルネ・デカルトは、薔薇十字団と接触し、加入しようとした。
薔薇十字団のマニフェストは、ヨーロッパ中の多くの知識人の心をとらえ、その多くが目の色を変えてその「結社」と接触し、加入を試みた。デカルト…はその申請者の一人であった。(Glenn Alexander Magee, Hegel and the Hermetic Tradition, Cornell University Press, 2008, p.53.)
実際に、フリーメイソンに一時的に加入したが、神秘主義を嫌って脱退したという話もある。
http://www.fecundity.com/job/wikipedia-fibs.html
デカルトは、認識の基準を人間の理性に置く。
「疑っている自分」こそが、唯一確実な知識の根拠だと。
神の言葉も疑うべきだと。
ここから、聖書を批評的に読む人々が生れた。
聖書を啓示としてではなく、一般書と同様に扱った。
神が神である以上、「神の言葉を疑う」ことは矛盾である。
自分を超越した者の言葉を疑った時点で超越者ではなくなる。
人間が聖書を疑うならば、超越者を超越した者になる。
つまり、神になる。
誰でも聖書を疑う人は、神である。
聖書を疑って進化論を信じた時点で、その人は「自分は神だ」と宣言したのである。
これが、近代人の本質である。
つまり、すべての人が神になった。
ヒューマニズムとは、人間教である。
人間を神とする。
これこそ、サタンがエバに信じさせたかったことだ。
「神は本当にそういわれたのですか。神は嘘をついています。その実を食べるならば、けっして死なず、むしろ、あなたはもっと賢くなります。」
神を超える知性があると人間に信じさせた。
だから、デカルトから始まる近代哲学とは悪魔教なのである。
この近代哲学を基盤として作られた近現代世界は、悪魔の国である。
われわれは、悪魔教に支配された世界の中で、聖書に基づく体制を作ろうとしている。
神の国とは、聖書を絶対基準とする体制である。
神を神として拝む体制である。
近現代世界を無条件で肯定するようなキリスト教は、キリスト教ではなく、悪魔教キリスト派である。
すべてまともなクリスチャンは、聖書的支配体制を希求するはずである。
しかし、実際は、これを主張すると、教会を追い出される。
教会が悪魔と契約を結んで生存を保証してもらっているからとしか考えられない。
われわれ再建主義の側に立つならば、悪魔側からの容赦ない攻撃を受けることを覚悟しなければならない。
この攻撃を受けたくないならば、悪魔側につけばよい。
しかし、悪魔とともに、永遠の刑罰を受けることを覚悟しなければならない。