神の法と自然法
(1)
現代人の思想は、進化論に基づいている。
この世界は、ビッグバンに始まり、偶然が偶然を生んで、たまたま生物の発生条件が整っていた地球に生物が誕生し、それが人間にまで進化したと。
超越者が不在のこの世界観では、自然が究極になる。
だから、自然法を超える法は存在しない。
自然は規範である。
となると、近親相姦、子殺し、同じ種族を食べること、一夫多妻など、動物が自然の中で行っていることは人間にも適用してよいことになる。
しかし、聖書では、自然は究極の基準ではない。
自然は神の被造物であり、しかも、堕落している。
自然は、神の救いを必要としている。
自然が究極の基準ではなく、神の法こそ究極である。
聖書と現代人の世界観の対立は、神の法と自然法の対立でもある。
だから、今のディスペンセーショナリズムやバルト、自然主義神学などの「キリスト教徒」が神の法を拒絶するときに、実は、彼らは、自らがノンクリスチャンの世界観に従っていることを告白していることになる。
神の法を究極としない教え、啓示が絶対であると告白しない教えは、ことごとく異教であり、ノンクリスチャンの思想であり、それゆえ、サタンの教えである。
「神の法に縛られてはならない」と公言するディスペンセーショナリズムは、サタンの教えである。
神の法を嫌う今のクリスチャンに迎合する教会は、神に反逆している。
(2)
神は無から世界を創造された。
だから、神を裁く基準はない。
「不完全性定理により、数学的に無矛盾性の証明は不可能になったから、絶対者なる神は存在しない」という議論も、被造物を基準とした議論だから無効である。
超越者を裁くことは不可能であるだけではなく、やってはならないことである。
神の前で人間は、土下座して、「言われることはなんでも信じ、従います」と告白しなければならない。
これが嫌なら、神の敵として永遠の闇に永遠に葬り去られるしかない。
(3)
「自然は究極であり、自然法則は絶対的に人間と世界を縛る」という思想は異端であるだけではなく、人間から希望を奪う。
超越者への祈りができなくなるからである。
自然を超えた存在への祈りが通じないのであれば、われわれは弱肉強食の原理に従うしかない。
社会悪があっても自分に力がなければ諦めるしかない。
進化論において「環境適者が生き残る」という法則が絶対であれば、「環境不適者が滅びる」ことは自然のことであり、それに抗ういかなる試みも無駄であるばかりではなく、反自然であり、世界の進化を妨害することになる。
実際に進化論者であり共産主義中国の軍人は、日本などを先制核攻撃して、中国人民が生き延びるようにすべきだという。
「この十年以内に核攻撃で日本などを消滅させ、中国が世界人口の中で大きな比率を占め、人類の進化の過程で有利な位置を占めるようにする」
この驚嘆すべき発言は、中国国防大学院長の朱成虎少将のもの。国防大学防務学部の内部会議での講話(記録係・蔡長杰)を、中国事情に詳しい鳴霞氏が入手した。
約九千字からなる朱成虎の言い分は「人口増加により資源が欠乏し戦争が勃発した後、一部の人口が消耗して均衡が保つ」と。その人類の歴史の発展の中で「中国は後手に回って討たれるよりは、主導的に討つて出る方がいい。核戦争は人口問題解決に最も有効だ。中国は全力で核戦争を行う準備を整えるべきと決めつけ、「大切なのは、我が中国がこの競争において機先を制し、他国・他民族の人口をできるだけ減少させるやう努めるとともに、自国の人間が数多く生き延びるようにする」と述べた。
「愚かな計画出産政策を放棄して、できるだけ多くの子供を産み、計画的に周辺諸国に浸透させる。周辺諸国への密入国を人民に奨励する」と中国人の人口膨張を推進する。
さらに、攻撃対象として日本などの.国々を挙げている。その方法として、「機が熟したら、果敢に猛烈な勢いで、全面的な核攻撃を発動し、相手が反撃に出る前に、その人口の大部分を消滅させるよう努める」と言い、最後に、「中華民族が手に入れるのは世界全体である」と締括る。
http://www.kokuminshimbun.com/events2671/01/h2301a03.html#01
http://homepage3.nifty.com/tamogamironbun/
しかし、あなたがたは、…王である祭司…です。(1ペテロ2・9)
祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりません(ヘブル7・12)
それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。(ローマ3・31)
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11・28)
私がこんなことを言うのは、人間の考えによって言っているのでしょうか。律法も同じことを言っているではありませんか。
モーセの律法には、「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない」と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。
それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは当然だからです。
もし私たちが、あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか。(1コリント9・8-11)
2013年11月17日
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