聖霊のバプテスマについて


>いつかお時間のある時に、「聖霊のバプテスマ」について詳しく教えていただきたいです。
>今まで、聖霊のバプテスマ= 力であって内住とは別だと思っておりましたが、それは正しいのでしょうか?

「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」(マルコ1・8)

egw men ebaptisa umaV en udati autoV de baptisei umaV en pneumati agiw

バプテスマの動詞baptizoは、新約聖書においては、「キリスト教の聖めの儀式についてのみ使用される語で、バプテスマを授ける(baptize)、洗う(wash)の意味」です(Strong)。
http://biblehub.com/strongs/greek/907.htm

語源は、baptoで「漬ける、浸す、完全に水に沈める、体の一部を濡らす」。(同上)
http://biblehub.com/strongs/greek/911.htm

ここで、enという前置詞は、「の中で」という意味があります。

その場合、水のバプテスマはebaptisa en udati (baptized in water「水の中で洗った」)で、聖霊のバプテスマはbaptisei en pneumati (will baptize in Spirit「霊の中で洗うだろう」)という意味になります。

さらに、「を利用して」という意味もあります。(Theological Dictionary of the New Testament, vol 2, p.540-541)。

その場合、水のバプテスマはebaptisa en udati (baptized with water「水によって洗った」)で、聖霊のバプテスマはbaptisei en pneumati (will baptize with Spirit「霊によって洗うだろう」)。

ちなみに、「によって作られた状況にある」という意味もあります。(Theological Dictionary of the New Testament, vol 2, p.540)

「イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。」(マルコ5・2)

kai exelqonti autw ek tou ploiou euqews aphnthsen autw ek twn mnhmeiwn anqrwpoV en pneumati akaqartw

ここで「汚れた霊につかれた人(anqrwpoV en pneumati akaqartw)」は、「汚れた霊の中にいる人」とも解釈できますが、「汚れた霊によって作られた状況にある人」という意味にも解釈できます。

enを「を利用して」という意味に解釈すると、マルコ1・8は、

ヨハネは、水によって洗うが、イエスは霊によって洗う、という意味になります。

バプテスマのヨハネは、旧約時代の最後の預言者です。

「律法と預言者はヨハネまでです。」(ルカ16・16)

すなわち、ヨハネは、神の旧い統治システム(経綸)を代表する人物です。

それに対して、イエスは、新しい統治システム(経綸)を代表する人物です。

旧い経綸において、儀式は単なる影であり、それは、本体であるキリストを指し示していました。

「これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」(コロサイ2・17)

つまり、水のバプテスマは、キリストによる本物のバプテスマの影でしかないのです。

その本物のバプテスマとは、聖霊によるバプテスマです。

水のバプテスマは、聖霊のバプテスマの象徴であり、そのものには実体はありません。

水での洗いで罪を洗うことはできませんが、聖霊による洗いは、罪を完全に洗い聖めます。

「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。」(ヘブル10・1)

水のバプテスマを受けて、名目上クリスチャンになっても、信仰によってキリストによる聖霊のバプテスマを受けない限り、意味がありません。

私たちが救われるのは「信仰のみ」によるのであって、外面的な儀式は救いにおいて役にはたちません。

逆に言えば、信仰があれば、儀式がなくても救われるということになります。

聖霊のバプテスマとは、「信仰による洗い」です。

聖霊のバプテスマによって、人は完全に聖められます。

人は信仰に入ると、必ず聖霊を受けます。これが、聖霊のバプテスマです。

ですから、信仰に入ったのに聖霊のバプテスマを受けていないということは、ありえないのです。

それを、信仰とは別の何か特別な現象であると考えることはできません。

では、水のバプテスマは、動物犠牲や割礼が廃止されたのと同じように、新約時代において不要になったのでしょうか。

そうではありません。なぜならば、次のように命令されているからです。

「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、」(マタイ28・19)

水のバプテスマは、聖餐とともに、新約時代における儀式として正式に制定されたものです。

>聖霊のバプテスマ=力であって内住とは別だ

それゆえ、聖霊のバプテスマは、力でもあるし、内住でもあるといえます。

>それから、「霊が生まれ変わる」という表現が、どうも理解できません。
>富井先生のいつかのメッセージに、「クリスチャンになると心が変えられる」と表現されておりましたが、私には、そちらの方が理解できます。

人は生まれながらの状態では、聖霊が内住していません。

アダムが罪を犯した段階で、聖霊はアダムから去りました。

そして、原罪を背負って生まれてくる人間はすべて聖霊をもっていません。

聖霊は、信仰とともにまったく新たに与えられるものです。

聖霊は、もともと私たちにはなかった存在です。

それに対して、心と体は、生まれたときに、もともと私たちに備わっています。

このもともとあるものについては、アダムにおいて、堕落し、不完全になりました。

肉体は堕落によって病気にかかったり、罪の影響を受けますが、同じように、堕落によって心も病気になり、罪の影響を受けます。

この堕落の影響は、信仰による聖化とともに減少し、徐々に回復に向かいます。

この回復の度合いは、神の法にどれだけ適合するかによって変わります。

罪を犯すと、肉体がダメージを受けるように、心もダメージを受けます。

悔い改めによって、罪から離れ、神の法にできるだけ適合する生活をすることによって、徐々に心も体もキリストに似たものに変えられていきます。

 

 

2016年1月7日



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