握りしめるな



聖書は「問題が起きたら、まず主のもとに行け」と教えている。

モーセは、民衆の反抗にあうと、まず会見の幕屋に行って、神の御許にひれ伏し、御言葉を待った。

神の御許に行かず、直接に民衆に対峙したときに失敗した。

メリバの泉において、神の御心をうかがわずに、直接岩を打ってしまった。

この罪により、約束の地に入ることは許されなかった。

支援を求めるときに、人に直接向かうと失敗する。

たとえば、無心をするときに、直接人に向かうと、相手にサタンが入り、利用されることになる場合がある。

まず神に祈って「必要があります!」と訴えることである。

その後に、神が送ってくださる人から借りれば問題はない。

「あの人がいないと僕はやっていけない」という心の持ち主は、すでに、サタンの餌食になっている。

サタンはその頼られる人を通じて、その人をコントロールする。

正しい心の持ち方は、

「神様、私はあなたにのみ依存します。あの人がいなくなってもかまいません。どうか私が執着しないように心を守ってください」と。

そうすれば、神は、その相手を「正常な形で」あなたに送られるだろう。

何かを握りしめている人は、偶像礼拝の罪を犯している。

それを神に明け渡すとその罪から解放される。

いつでも「私にとって、あなたに捧げられないものは何一つありません」と告白することである。

握りしめているものが多くなればなるほど、フジツボがびっしりついた船のように、霊的な動作と感性が鈍くなる。

 

 

2017年12月25日



ツイート

 

 ホーム

 



robcorp@millnm.net