未熟なクリスチャンは肉に頼る
聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。(エペソ1・14)
自分が救われているのか疑問に感じることがある。
御国を相続できるのか。天国に行けるのか。
不安に思ったら、自分のうちに聖霊があるかどうかを見ればよい。
「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証で」ある。
では聖霊があるかどうかはどうやってわかるのか。
ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。(1コリント12・3)
「イエスはのろわれよ」と言う人は聖霊がない。
また、「イエスは主です」と言う人は聖霊がある。
ただし、プレ・ミレのように実質的にイエスを否定する教えを唱えているような人がイエスを主と告白しているとは思えない。
わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者が入るのです。(マタイ7・21)
言葉で「主よ」ということが大切なのではなく、「みこころを行う」ことが大切だ。
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。
肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。(ローマ8・1-5)
再建主義を批判する者が、われわれのことを御霊の原理を説かないというが、誤解である。
われわれは正統派の教理にしたがっているのである。
「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。 」
律法を守ることができるようになるには、御霊を受けるしかない。
肉は無力である。
イエスはわれわれの肉の姿に絶望しなさいと言われた。
「心の貧しい者は幸いである」
この「貧しい」という言葉は「極貧」を意味し、自分のうちにある資産にまったく頼れない状態を指す。
われわれは、道徳的に破産している。
われわれは、道徳的に無力である。
それを自覚する人は幸いなのだ。
自分に絶望していない人は、本来のクリスチャンの姿ではない。
クリスチャンの中に「理性を啓示に優先する」などと公言している人間は、自分に絶望していない。
くだかれていない。
「御言葉は絶対だ」と告白できないのは、自我が占領しているからである。
本物のクリスチャンは「神の御前にわたしは馬鹿です。無知です。知恵がありません」と告白できる。
このような「心の貧困さ」を自覚している人は、聖霊に頼るので幸いなのだ。
神にしか頼れない状態になっているので幸いだ。
自分の力にいくばくかの期待を抱き、プライドを持っているような人は、聖霊に頼れないので、結局は自分の馬鹿さ加減を嫌というほど見せつけられるだろう。
未熟なクリスチャンは肉に頼る。
2013年5月11日
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