予定論を信じないクリスチャンはクリスチャンではない
私は、人というものは本質的に変わらないと考えている。
百万回聖書的メッセージを聞いても、信じない人は信じない。
逆に、1回聞いてすぐに悟る人もいる。
だから、福音伝道を「人間を変えるため」には行わない。
何のためにするのかというと、「信じて神のために実を結ぶように永遠の昔に選ばれた人が、その本来の使命を達成するため」である。
私が再建主義に出会ってそれを日本に紹介したのも、神の計画があったからだ。
それ以外の道は存在しなかった。
永遠の昔に、このことは決定されていた。
職業について考えてみよう。
目の前に無数の職業があり、可能性がある。
しかし、自分が本当に打ち込めるのは、神が選ばれたものだけだ。
だから、人間は自分に向いているものに取り組むように自然に落ち着く。
魚屋として造られた人は、八百屋をやっても「どうも違う」という思いを内側に持つだろう。
魚屋として働きはじめると、「やっぱり俺は魚を扱うほうがいい」と納得するだろう。
神は、その職業に就くべく、最初から計画しておられる。
だから、英語で職業はcalling「召命」なのである。
人は、神の国のためにその与えられた使命を果たすべく人生を導かれる。
ある人は、神の国を破壊するために選ばれている。
われわれから見れば、最後に滅びるのだから気の毒なのだが、そのように選ばれている人にとっては、その活動をすることが「一番落ち着く」のである。
マルクスは、神の国を破壊し、地上を地獄に変えるために大きな仕事をしたが、そのように選ばれていたため、その活動のために様々な支援者が現れ、助けてくれた。
神の国のために働く人も、神の国を破壊するために働く人も、神の計画に基づいて行っている。
神の計画に沿っていないと、心が落ち着かない。
自分が自分でないと思う。
神の計画に沿っていれば、道がどんどん開けてくる。
ペテロもユダも、神が書かれた脚本どおりに人生を送った。
ペテロは救われ、神の国のために働くという役割を与えられていた。
ユダは救われず、神の国を破壊するために働くという役割を与えられていた。
「じゃあ、ユダはそれしか生きる道がなかったのだから、責任はない」とは言えない。
あくまでもユダが犯した罪は、「ユダが」犯したのであるから。
われわれが立っている場所の床が突然消滅したとする。
すると、われわれは下に落ちていくわけだが、われわれ、本性において堕落している存在は、神の支えが消えると堕ちる。
ピンボールは、2本のコントロールバーを操作して落下するボールを弾き返して得点するゲームだ。
神は、ユダのような仕事をするために選ばれた人の場合、あえてバーで打ち返されない。
落下するのに任せられる。
その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、
「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。 それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。
神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。
したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。(ローマ9・11-16)
2013年1月6日
ホーム