実家に母だけが住むことになった。
妹は横浜にいて、私は埼玉にいる。
こちらに来るように言ったが、残ると言った。
あるクリスチャンの知人が「それじゃあ、tomiさんは帰らないといけないね」と言った。
残念ながらそう簡単ではない。
今までの人生で、「レビ族にあたる人々には自由がない」ということを嫌というほど体験させられてきた。
レビ族は、普通の種族の人々と同じようには行動できない。
相続地が与えられなかった。
なぜならば「主ご自身が相続地だから」。
それゆえ、レビには兄弟たちといっしょの相続地の割り当てはなかった。あなたの神、主が彼について言われたように、主が彼の相続地である。(申命記10・9)
つまり、生産活動をする場である地は、宗教部門を担当するレビ族には与えられなかった。
なぜか。
レビ族は、他の部族の上りで生活するから。
生産を担当する他部族は、その十分の一をレビ族に与えなければならなかった。
そうしないと、相続地を持たないレビ族は存続できない。
これが宗教部門と生産部門の違いである。
神の国において、宗教部門を担当する人々、つまり、牧師や伝道師や神学者は、生産活動に従事すべきではなく、生産部門を担当する一般信徒の献金によって生活すべきである。
私は、この区別を長い経験でようやく体得してきた。
最初はまったくわからなかった。
神の扱い方がまったく違うことを。
牧師や伝道師など、神の御言葉のために献身をした人々は、いわば「神殿の祭具」である。
聖なる祭具を普通の料理や食器として利用してはならない。
それは冒涜罪に当たる。
神殿の聖具で葡萄酒を飲んだバビロンの王ベルシャツァルは、廃位させられ、殺された。
「…その子であるベルシャツァル。あなたはこれらの事をすべて知っていながら、心を低くしませんでした。
それどころか、天の主に向かって高ぶり、主の宮の器をあなたの前に持って来させて、あなたも貴人たちもあなたの妻もそばめたちも、それを使ってぶどう酒を飲みました。あなたは、見ることも、聞くことも、知ることもできない銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しましたが、あなたの息と、あなたのすべての道をその手に握っておられる神をほめたたえませんでした。
それで、神の前から手の先が送られて、この文字が書かれたのです。
その書かれた文字はこうです。『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。』
そのことばの解き明かしはこうです。『メネ』とは、神があなたの治世を数えて終わらせられたということです。
『テケル』とは、あなたがはかりで量られて、目方の足りないことがわかったということです。
『パルシン』とは、あなたの国が分割され、メディヤとペルシヤとに与えられるということです。」
そこでベルシャツァルは命じて、ダニエルに紫の衣を着せ、金の鎖を彼の首にかけさせ、彼はこの国の第三の権力者であると布告した。
その夜、カルデヤ人の王ベルシャツァルは殺され、
メディヤ人ダリヨスが、およそ六十二歳でその国を受け継いだ。
(ダニエル5・31)
神殿専用に用いるべき器を世俗のために用いてはならない。
献身者は、神の聖具となるべく献身した。
だから、他の目的には適していない。
優れた説教者が、普通の冠婚葬祭のあいさつでは口下手であるということはよくある。
彼らは、神のメッセージを伝えるために才能を与えられたのである。
それ以外のために用いても役に立たない。呪われる。
未熟なクリスチャンは、聖俗の区別ができない。
だから、牧師や伝道師に、普通の職業の人々と同じことを要求する。
彼らは特別に聖別されているので、普通の常識が通用しないのだ。
一般の人から見れば親不孝に思えることもしなければならない。
普通の人々から見れば常識はずれ、奇怪なことも言わねばならない。
私は、献身者の世界が別の法則に支配されていることを、うんざりするほど叩き込まれてきた。
牧師や伝道師が不器用に見えることがあるかもしれない。
それは、「それ以外できないから」なのだ。
霊的拘束があって、できないのだ。
私は、献身者が普通の職業を選択して、塗炭の苦しみを味わわないことを望む。
あれは本当にきつい。
未熟なクリスチャンは、「あの牧師は、世俗の会社で苦労してやめた?そりゃ、牧師の世界は一般社会よりも甘いからね」と思うだろう。
違う。
そういった苦労ではない。
聖別された器が、世俗の器として利用されるときにどのような異常が起き、違和感が起きるか。
体験しないと分からないだろう。
思い出すことすら恐ろしい。
預言者は、預言者として訓練される。
預言者ではない人にはわからない世界がある。
献身者の世界は、世俗の世界とは質的にまったく違う。