日本国憲法とディスペンセーショナリズムからの解放3


ウェストコットとホートの狙いは、翻訳聖書を通じてクリスチャンをローマ・カトリック化することであった。

アレキサンドリア型写本をもとにしたこの翻訳聖書を大量に発行することによって、フリーメイソンのロックマン財団がその活動を後押ししてきた。

われわれの手には、ビザンチン写本に基づく聖書はほとんどない。

つまり、われわれは、強烈なローマ・カトリック化の圧力のもとにある。

もちろん、ローマ・カトリックはイエズス会に支配されており、イエズス会はグノーシスの流れの中にある。

われわれは、古代から教会が戦ってきた相手のグノーシス及び反宗教改革の陣営に取り込まれつつある。

攻撃の方法は、翻訳聖書だけではない。

ディスペンセーショナリズムによっても攻撃されている。

今の福音派のクリスチャンはほとんど、将来エルサレムに神殿が建つと考えている。

そして、再臨のメシアがそこに立って世界を統治すると。

このストーリーは、グノーシス側の創作である。

われわれを、宗教改革から引き離すためのものである。

宗教改革から出たはずのリベラルもバルトも自然主義、つまり、聖書よりも自然理性を重んじる立場に立ち、完全に敵側に立っている。

聖書を最高権威とするのではなく、人間の理性、自然的に人間が持っている理性のほうを重視する。

だから、聖書を批判の対象として読む。

これは、「知識を救い主と見る」グノーシスの立場である。

なぜ日本においてキリスト教が伸びないのか。

真理じゃないからだ。

イエスや使徒たちと戦っていたグノーシスの側に立っているから、伸びない。

そんな教えに神が祝福を与えるはずがないではないか。

みなさんも体験されたかもしれないが、今、われわれが聖書信仰に立って物を言うと、教会からひどい仕打ちを受ける。

追い出される。

中傷される。

活動先にわざわざ電話を入れて、われわれの評判を下げるようなことをする。

教会は、ウェストコットとホートの翻訳聖書とディスペンセーショナリズム、インマヌエル・カントの自然理性至上主義によって完全に毒されているから、真理を迫害する側に回ってしまった。

戦後日本は、憲法までが、グノーシス化された。

戦前の日本の憲法は、国家主義的なプロシアを手本としたが、しかし、カルヴァン主義者フルベッキの影響は強く、彼を近代日本の父と呼ぶ人もいる。


元老院は柳原前光・中島信行・福羽美静・細川潤次郎に(大日本帝国)憲法草案作成を命じ、フルベッキとプスケが手伝って、自由主義的な立憲君主政体のオランダやベルギーの憲法を参考にした、「法の下の平等」「国民の権利」「自由の保障」をうたった草案ができたが、国家主義的なプロシア憲法を手本にしたかった岩倉具視や伊藤博文が反対、闇に葬られた。
http://blogs.yahoo.co.jp/juku2716/34034792.html

1874年に中国に派遣され外務卿となった副島[種臣]とともに、大隈はフルベッキ氏の下で特に合衆国憲法を学び、ほとんどすべての西欧諸国の基本法に精通した。柳谷謙太郎は特許局長であり、その他にも、1874年にキリスト教国に派遣された使節団の中に、写真に写る者を多く認めることができる。
『新訳考証 日本のフルベッキ』(松浦玲監修・村瀬寿代訳編 洋学堂書店)p.119
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2005/08/post_89cf.html

米国オランダ改革派教会の宣教師であったフルベッキは、イエズス会を嫌っていた。

(インターネットでは、フルベッキをイエズス会の回し者としている記事が多いが、改革派はカルヴァン主義であって、イエズス会と対極にある。)

われわれは、自分の立ち位置を見極めよう。

初代教会から宗教改革、そして再建主義へつながる本当の「聖霊の流れ」の中に入ろう。

悔い改めなしには、日本のキリスト教の再生はありえない。

聖書を人間の自然理性の上に置き、最終権威として認める本物のキリスト教に帰ろう。

 

 

2014年4月13日



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