最終的に人々は聖書的キリスト教を選択するだろう


民主主義は、多元主義であり、社会通念によって法律が変わる。

普遍的、不変的な法を認めない。

LGBT批判でも、杉田議員のように「生産性がない」というレベルでしか批判できない。倫理面からの批判ができない。なぜならば、日本は神や神の法を前提に成り立つ国ではないから。

われわれは聖書から「神が禁じているから」という理由で批判する。

われわれは、道徳は超自然的でなければならず、われわれの理性や良心を超えた権威者である神の決定に依存していると考える。

「自民党は多様な価値観を認める方針を採っているので杉田議員の発言は問題だ」という与党議員もいる。

ここですでに多元主義の限界を露呈している。

大多数の国民の良心はLGBTについて「人に迷惑をかけなければ何をやってもいいのか」と疑問を抱いている。

しかし、法的な建前から言えば、LGBTを批判する原理は、日本国には存在しない。

それゆえ、法律で規制することもできない。

神は、国家の権威を超越しているので、LGBTを裁かれる。

そして、LGBTに染まって全体が堕落した社会を滅ぼされる。

ソドムとゴモラがその好例である。

結局、日本が生き残るには、LGBTを規制していかなければならないのだが、多元主義を建前としている以上、不可能である。

このジレンマが露呈してしまった。

私は「民主主義の多元主義は歴史の試練に勝てない」と考えている。

なぜ昔から、それぞれの民族に姦淫罪が存在してきたのか。

歴史の試練をくぐる中で、人々が「姦淫を放置すると社会が崩壊する」と体験してきたからであろう。

ノンクリスチャンの心の中にある「ボロボロになっているが残っている十戒の二枚の板」は、それを教えてきた。

歴史は、いずれ「多元主義も一元主義もだめだ」と結論を出すだろう。

多元主義の社会は、社会の崩壊を食い止める力を欠くと悟るだろう。

一元主義の社会は、社会から自由を奪うと悟るだろう。

一元主義であるタルムードユダヤ教は、「通も一つ、国家も一つ、言語も一つ」の世界政府を目指す。

そのため、タルムードユダヤ人は、各国家に移民を大量移住させて国民国家を破壊し、LGBT運動、ジェンダーフリー運動を進めて家族を破壊し、民族派に対する言論統制により民族の解体を目論んでいる。

結局、世界は「神において統一も多様性もどちらも究極の価値を持つ」とする「三位一神教」に落ち着くだろう。

三位一神教は、3人の神が契約を結んで一人の法人として存在する、と教える。

三位一神教を基本とする社会では、多様性も統一性もどちらも尊重される。

国民国家も世界平和もどちらも等しく尊重する。

三位一神教の文化を象徴するのは、オーケストラである。多様な楽器がそれぞれの持ち味を生かして一つの楽曲を演奏する。

神において統一性と多様性が等しく究極の価値を持つので、神が創造された世界もそのようにできている。

人体は、多様な細胞が集まって統一体を形成している。

物は、多様な元素が集まって組織体を形成している。

一元主義は、細胞膜を消して、一つの細胞にしようとしているので、無理がある。

多元主義は、細胞をまとめあげて統一体とする原理に欠けるので、無理がある。

最終的に、人々は聖書的キリスト教を選択するだろう。

 

 

2018年7月29日



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