ハデスと火の池の違い


厳密に言えば、クリスチャンは、死後ただちに復活して体を与えられる。

だから、「死後」という言葉も間違いである。

クリスチャンは死なない。


まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。(ヨハネ8・51)

ノンクリスチャン(非聖書信仰のクリスチャンを含む)は、死後、魂だけの存在になる。

そして、「ハデス」に移される。

さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』(ルカ16・22-24)

ここは、「炎の中で、苦し」い場所である。

ただ、これもまだ軽い刑罰である。魂だけの状態だから。

本当の刑罰は、体を与えられた後にやって来る。

キリストが再臨(紀元70年のそれとは異なる)され、世界の歴史が終わり、永遠の世界がやってくるときに、ノンクリスチャンの魂には体が与えられる。

そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。(黙示録20・5)

「そのほかの死者」とは、「イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たち」(4節)以外、つまり、ノンクリスチャンである。

ノンクリスチャンは千年(他の黙示録の表現と同じように文字通りと解釈してはならない。千年単位の長期間と解釈すべき)の終わりに「生き返」る。

そして、火の池に投げ込まれる。

いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(黙示録20・15)

体を持ちながら、火の池に「永遠に」入っていなければならない。

魂の苦しみだけではなく、肉体的苦しみを伴うのが、「火の池」である。

ハデスと火の池は、このように違う。

 

 

2014年4月3日



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