クリスチャンは自己完結を目指せ
世俗の大学や神学校の卒業証書とか学位を気にすると、そこがわなになる。
契約の世界は、外的な証明を超えたところにある。
契約に属するわれわれが認められるのは、世俗の政府や機関が認めてくれるからではない。
われわれが救われ、神によって認められ、永遠の命を受け継ぐのは、われわれがどの学校を出たからとか、どの学位を持っているからとか、どこに住んでいるからとか、どの程度の資産があるから、というわけではない。
われわれが救われたのは、もっぱらキリストへの信仰による。
この世のいかなるものもわれわれを滅ぼすことはできない。
御使いがわれわれの前に突然現れて「お前はのろわれている!」と宣言したとしても、われわれの救いの事実は絶対に揺るがない。
神は一度救った人を最後まで必ず救いに導かれる。
これを聖徒の堅忍という。
契約の世界は、世俗の権威を超越している。
だから、世俗によって身分を保証される必要がない。
それは、生活の糧ひとつにしてもそうである。
神の国とその義を第一に求めるならば、生活に必要なものはすべて与えられる。
われわれの生存は、世俗の職業的、社会的、物質的な条件によって左右されない。
神が直接、われわれの世話をされる。
だから、われわれは、世俗の学会に認められるとか、世俗の評価を気にする必要はまったくない。
もちろん大学に行って、学問を身に着けることは役に立つし、職業訓練をして熟練の技術者になることも重要である。
しかし、それがなければやっていけなくなる、と心配する必要はない。
究極的に誰を頼るのか、という点で失敗しない限りわれわれは様々な資格を得たり、学位を得ることはよいことである。
歴史的に、クリスチャンは、究極的な権威は誰かにおいて失敗してきた。
進化論を信じる人がいるのは、世俗を聖書啓示よりも重視するからである。
こういう人々は、世俗の様々な権威や学位や資格、職業、身分、財産などに注目する。
彼らにとって救いとは、神ではなく、世俗なのである。
こういう中途半端な態度だから、近代になって神の国は小さいままだ。
契約に属するわれわれは、世俗の評価に関して、まるで傍若無人である。
パウロと同じように、それらを糞土のように思う。
だいたい学位や学歴などは、人の価値を鋭く評価できない人のためのものである。
本当の目利きは、学歴や学位などの知識は不要だ。
神の国の発展を目指すわれわれは、「あたかも閉じられた世界の中に住む住民」のように、この世界で生きるべきだ。
「生物学界から捨てられたらやっていけない!」などと考える人が生物学を教えてはならない。
真理を追究し、聖書から妥協せずに創造論を教える教師は、そんな中途半端な信仰ではだめだ。
クリスチャンは、自己完結を目指せ。
2014年5月12日
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