日本は侵略国家だったのか?
日本の仮想敵はずっと北方、つまりロシアだった。
しかし、ある時点で南方、つまり中国以南に変わる。
その転換点は、日支事変だ。
盧溝橋事件から始まる日支事変によって、日本はずるずると中国での戦いに引きずりこまれた。
しかし、盧溝橋事件は、日本が起こしたものではなく、中国共産党による。このことは、共産党自身が述べている。
盧溝橋事件というのは、昭和12(1937)年7月7日の真夜中に、北京の南を流れる盧溝河に架かる橋近くで夜間演習をしていた日本軍が、突然発砲を受けた、という事件です。
このとき日本軍は、演習中でしたが、実弾を携行していません。
つまり、日本軍は「銃は持っていたけれど、弾を持っていなかった」のです。
ですから、当然、応戦はできません。
なにせ撃ち返す弾がない。
これは、たいへん危険な状況です。
時代が時代なのです。
日本軍のすぐ近くには、蒋介石率いる国民党軍がいました。
正式名称は、国民革命軍第二十九軍です。
兵力10万人の大軍です。
ところが、この国民党軍も、日本軍が発砲を受けた同時刻に銃撃を受けています。
日本軍は受けた銃撃を、国民党軍によるものと思い込んだ。
けれど、国民党軍も日本軍によって銃撃を受けたと思い込んだのです。
この発砲がひきがねになり、日本と国民党軍との間に、小紛争がおきます。
けれど、両軍とも、妙に腑に落ちない。
両軍は使者を出し、現地で事件を拡大しないように交渉し、事件発生の5日後には、日支両軍は停戦協定を結んでいます。
日本軍も国民党軍も、どちらも戦いたくなどなかったのです。
では、いったい誰が、夜陰にまぎれて両軍に発砲し、戦闘状態を招いたのか。
支那共産党の周恩来首相は、昭和24(1949)年10月1日の「中華人民共和国」成立の日に、
「あの時(盧溝橋事件の際)、我々の軍隊(共産党軍)が、日本軍・国民党軍双方に、(夜陰に乗じて)発砲し、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し、我々(共産党)に今日の栄光をもたらしたのだ」
と発言しています。
支那共産党の首相自らが、犯人は自分たちであったと自白しているわけです。
さらにいまも支那共産党軍の兵士向けのパンフレットには、「盧溝橋事件は我が優秀なる劉少奇同志(後の国家主席)の指示によって行われたものである」とはっきり書かれています。
加えて支那共産党は、盧溝橋事件が起きた翌日(7月8日)には、「対日全面抗戦」を呼び掛けています。
盧溝橋事件が起きる事を知っていたからできた手際良さです。
要するに盧溝橋事件は、支那共産党による「謀略」です。
つまり日本軍による侵略行為ではない、ということです。
(史実を世界に発信する会による)
http://p.tl/bh-k
ところが、7月25日には、北京郊外の廊坊駅で、通信施設修理中の日本軍の少数の部隊が、やはり支那兵に襲われるという事件が起こりました(廊坊事件)。
さらに26日には、北京の広安門で、門を通過中の日本軍の大隊が、縦隊となって門を通過している最中に、突如門が閉ざされ、大隊の隊員たちを門の内外に分断された上、支那兵によって手榴弾と機関銃による猛攻撃を受けるという事件が発生します(広安門事件)。
そして廊坊、広安門で蹴散らされた支那兵たちは、7月29日までに北京郊外50キロにある通州城に終結し、日本軍が外出して手薄になった通州城内で、日本人居留民、260名をきわめて酸鼻な方法で殺害するという事件が起きています(通州事件)。
さらに8月9日には、中国軍は自動車で巡察中の日本海軍陸戦隊の大山勇夫中尉と斎藤嶼蔵1等水兵を惨殺されます。
支那国民党は、ご丁寧にもひとりの支那人死刑囚に国民党軍の軍服を着せて、飛行場の門外で射殺しています。
日本側が先に発砲したように見せかけるための工作です。
支那側は、攻撃されたので反撃したとして保安隊員の死体を持ちだしてきて強弁したのですが、弾痕から日本側のものではないことが明らかとなり、その後はシカトしています。
毛沢東伝である「マオ」(ユン・チアン、ジョン・ハリデイ著、土屋京子訳、講談社、2005年)によれば、このとき国民党南京上海防衛隊司令であった張治中は、支那共産党の国民党への潜入スパイであったが、蒋介石に日本軍攻撃を決断させるために、こうした事件を仕組み、蒋介石に日本との開戦を強く迫ったことが記されています。
そして、こうした事件が支那各地で、7月7日以降、大小合わせてなんと61件も起こったのです。
日本側は、ここまでされてもなお、事件を穏便に処理しようとして、報復戦など挑まず、平和裏に事態を収拾しようと努力しました。
いわゆる「不拡大方針」です。
(同上)
不戦を希求する日本に対し、支那国民党は8月13日には、こんどは上海において、3万の蒋介石軍が総動員体制の下、居留民保護のために駐屯していたわずか4200名の日本海軍陸戦隊に対して本格的な一斉攻撃をしかけてきたのです。(第二次上海事件)
この第二次上海事件については、8月31日付のニューヨークタイムスが、次のように報じています。
【外国人は日本を支持】
上海における軍事衝突を回避する試みにより、ここで開催された様々の会議に参加した多くの外国政府の代表や外国の正式なオブザーバーたちは、皆、以下の点に同意するだろう。
日本は敵の挑発の下で最大限の忍耐を示した。
日本軍は居留民の生命財産を多少危険にさらしても、増援部隊を上陸後数日の間、兵営から一歩も外に出さなかったのである。
8月13日以前に上海で開催された会議に参加したある外国使節はこうみている。
「7月初めに北京近郊で始まった紛争の責任が誰にあるのか、ということに関しては意見が分かれるかもしれない。
しかし、上海の戦闘状態に関する限り、証拠が示している事実は一つしかない。
日本軍は上海では戦闘の繰り返しを望んでおらず、我慢と忍耐力を示し、事態の悪化を防ぐために出来る限りのことをした。
だが日本軍は中国軍によって文字通り衝突へと無理やり追い込まれてしまったのである。
中国軍は外国人の居住している地域と外国の権益を、この衝突の中に巻き込もうとする意図が有るかのように思えた。」
(HALLETT ABEND 上海特派員)
今から71年前の昭和16年12月8日、日本機動部隊の真珠湾攻撃によって、日米戦の火ぶたが切って落とされた。しかし、日米戦は実際にはこの時に始まったわけではない。本当はペリー襲来以来の歴史にさかのぼって、その原因を究明しなければならないにもかかわらず、12月8日が近づくと、なぜ日本が攻撃したのか、ばかりを論ずる超視野狭窄の議論がマスコミをにぎわす。
これらの論は、唯一つ、ルーズベルト大統領が、12月8日の5か月も前に、日本本土爆撃作戦計画の実行にOKのサインを出したという、文書が公表されたことによって、完全に崩壊している。
本質的にはアメリカこそが日米戦を望み、それを仕掛けてきたというのが歴史の真実である。昨年公刊されたフ―バー大統領の回顧録『Betrayed Freedom』に「日本との戦争の全てが、戦争に入りたいという狂人(ルーズベルト)の欲望であった」(833頁)と述べられていることによって、とどめが刺されたといってよいであろう。
イギリス人である、ヘンリー・ストークス氏は、日米戦の原因はペリーの日本来襲の必然的な結果であることを、本論文で実証している。今や世界の良心的な知識人が、日米戦、そして大東亜戦争が決して日本の自己中心的な侵略主義によっておこされたものではないことを発言しつつある。これからそうした論を順次発表していく予定であるが、まずはこのストークス氏の論を、真正面から読んでいただきくことを願うものである。
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n138816
2013年6月19日
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