出戻りクリスチャンの末路



一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、
神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、
しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。
土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。
しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。
だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。
神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。
そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。(ヘブル6・4-11)

知恵には段階がある。

福音派が唱えるABCの教え、つまり、イエス・キリストによる救いについて悟りが与えられたならば、初級終了。

さらに進んで、予定論やTULIP(カルヴァン主義の5特質)を理解したら中級終了。

再建主義の5条件を理解したら上級終了。

ここまで達した後に、再建主義を離れて、福音派のABCに戻るならば、その人は堕落したのである。こういうクリスチャンを出戻りクリスチャンと呼ぶことにする。

一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。

堕落した人を立ち返らせることはできない。

なぜならば「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わった」からである。

再建主義を学んで理解したならば、それは、神の与えてくださったチャンスである。

福音派に戻るならば、せっかくのチャンスを捨てているのである。

会社から新幹線の切符をもらって、出張に行ってこい、と言われたのに、在来線の鈍行で行ったら上司から「なぜ新幹線で行かなかった?」と責任を問われる。

自分が学びのチャンスを与えられたということは、それを利用して神の国を拡大することを期待されているのである。

それなのに、ABCに戻るというなら、「神の与えられたチャンスを無駄にする」という選択をしたのであるから、審判の日にひどく鞭打たれる。

主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。(ルカ12・47)

そういう人は、神によって頑固にさせられているので、我々の側では何もできない。

そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。

神が頑迷にされたので、悔い改めることは不可能である。

2.

出戻りクリスチャンの特徴は「無益な結果しか生まない」ことである。

土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。
しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。

成長しているクリスチャンは、「耕す人たちのために有用な作物を生じる」。

つまり、神のために有用な結果を出す。

たとえば、神の国のために成果を上げる。神の国のために活動する人々を支援する。自ら会社を作って収益をあげて、社会に大きな影響力を行使する。・・・

しかし、出戻りクリスチャンは、タルムードユダヤ人によって洗脳状態にある福音派に戻るので、「役立たず」であり「神の国のために何も貢献しない」。

出戻りクリスチャンの末路は「やがてのろいを受け、ついには焼かれてしま」う。

再建主義を勉強して、高みに登って山頂から素晴らしい景色を眺めた後に「やっぱり麓のほうがいい」と戻っても、麓での生活は呪われる。

祝福がないので、何をやっても実を結ばない。

 

 

2016年11月29日



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