献身者は神殿の聖具である2
この文は、かつて献身者だったから、その後は会社に入るなとか、別の仕事をするのはよくない、という意味ではありません。
実際、生活のためにアルバイトする必要もあるでしょう。
パウロもテント作りをして生計を立てていました。
かつて牧師だったが、別の職業についてそれによって神の国建設をすればまったく問題ではないでしょう。
すべての仕事は聖です。
職業に貴賤なし。
世俗の仕事などというものはこの世に存在しません。
クリスチャンが行うすべてが聖職です。
そういう意味で言ったのではなく、神の召しが明らかに牧師や教師などレビ人の仕事であることがわかっており、しかも生活が厳しいわけでもない場合、「安易に」それ以外の仕事についても祝福されないと言っているのです。
神が牧師や教師などに召しておられる場合、それは絶対の命令ですから、避けることは不可能です。
避けるならば、あたかも、映画『十戒』でモーセの隊列が水の中を歩いているときの横にそそり立つ海の壁の中に入っていくような感覚になるでしょう。
自分の使命と違うことを職業とすることほど辛いことはありません。
しかし、神がその「場違いな空気」の中にとどまるように導かれる場合があります。
それは、いろんな意味があるでしょう。
柔和になるには、自分の不得手なことをやるのが一番です。
それから、場違いな感覚をずっと続けることによって、自分の使命がどこにあるかはっきりとします。
自分を見つけるために神が異質な職場に導かれることがあります。
最初から、自分に向いていること、能力のあること、使命を感じることを行うならば、傲慢は避けられません。
能力のない人をバカにするようになる。
自分が不得手な分野で苦労すれば、能力のない人を思いやることができるようになります。
だから、「使命と違うことをやることは、すなわち、ヨナのように命令に違反することである」とは必ずしも言えないと認める必要があります。
私が問題にしたのは、聖具としての自分の乱用についてであって、必要に迫られた場合や神に導かれている場合はまた別の問題です。
2015年7月3日
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