1.
「神学なんてやっても意味はない。人が救われなければ意味はない」という牧師が多い。
彼らは偶像礼拝者である。
「神とはどのようなお方かを知る必要はない。人が天国に行けるかどうかが問題だ」と言っているのと同値だから。
聖書において「聖書が定義する神以外の神を礼拝することは、偶像礼拝である」と教えられている。
自分の頭で作り上げた神は、神ではない。
聖書を読んで、それに基づいて神を厳密に定義してはじめて偶像礼拝から解放される。
2.
神は救われる人の数を永遠の昔に決定された。
救いとは、人間が努力して獲得したものではない。
人間が自らのイニシアチブで達成したものでもない。
神が最初から最後まで一方的に働かれてはじめて達成される。
神はすでにこの世界で起きるあらゆることを、永遠の昔に決定された。
「19○○年に、△△という人が生まれるようにしよう。そして、その人がイエス・キリストの救いを信じるように導こう」と神は、まだ世界が創造される以前に決定されたのである。
だから、実際に19○○年に、△△という人が生まれ、19○○年にイエス・キリストを信じて救われたのである。
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。(エペ1・4)
世界が創造される前に全部決定されていた。
人間教に汚染された人々にとってこれは「とんでもない」教えである。
「人間が堕落する以前に、人類の堕落は決定されていたのか?じゃあ、神は罪の創造者だ。自分がアダムの子孫として人が生まれたことそのものが罪の創造であり、自分の責任ではない」というかもしれない。
人間は、神の似姿として創造されたのである。
きわめて尊い者として創造された。
だから、善悪の決定をする責任をも与えられた。
子が40歳になっても、門限を設定する親がいるだろうか。
大人として扱うということは、「夜出歩くことを許す」こと。
大人として扱うということは、「善だけではなく、悪も選択するリスクを負わせる」こと。
神はアダムを大人として扱われた。
そして、アダムが罪を選択することを「妨げない」ということをもあらかじめ決定された。
罪を選択することによって起きた堕落が「アダムから生まれる人全員に適用される」ということもあらかじめ決定された。
毒蛇から毒蛇が生まれるように、堕落したアダムからは堕落した子が生まれた。
その子は、生まれながらに堕落した子を生んだ。そして、その子も、生まれながらに堕落した子を生んだ。・・・
アダム族に生まれた人間は、全員生まれながらに堕落しており、自らの努力では救いを得られない。
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペ2・3)
人間は「生まれながら御怒りを受けるべき子」であり、われわれは、絶望的な状態で生まれてくる。
しかし、われわれが「不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行な」うのは、自分の選択による。
神が強制したから「欲望のままに行動する」のではない。
自分の罪は、「好きでやっている」ことである。
覚醒剤を打つ人は「好きでやっている」。
他の人が「やめなさい」と言っても「好きでやっている」。
アダムから生まれた人は例外なく「好きで堕落する」。
だから責任を神に押しつけることはできないのである。
反日韓国人は、どんなにわれわれが「慰安婦強制連行の証拠はない」と言い、それが「朝日の捏造だった」とわかってからも、慰安婦像を建て続ける。
日本に対して中傷を行うことは、「むりやりやらされていること」ではなく「好きでやっている」のである。
彼らに責任がないとどうして言えるだろうか。
「アダム族として生まれることは、生まれながらに罪を背負うこと」を意味するが、しかし、それだからと言って責任を神に押しつけることはできない。
堕落を積極的に選択しているのは、われわれ自身だから。
3.
サタンは、誰も誘惑しないのに「自らすすんで」堕落した。
しかし、人間はサタンに誘惑されて堕落した。
だから、神は、人間に救いの道を用意された。
もし人間が、サタンのように誘惑されることなく罪に落ちたのなら、救いはなかったであろう。
神はイエス・キリストにわれわれの罪の責任を負わせることによって、無罪化しようとされた。
イエス・キリストを信じる人は誰でも値なしに救われる。
イエス・キリストを信じるか、信じないかの決定は人間に委ねられている。
4.
しかし、その決定をすることも、神がすでに永遠の昔に決定されている。
救いに予定されている人は、何をしようと、逆らおうと、逃げようと、どう転んでも救われる。
100万回裏切っても救われる。
なぜならば、神の側で永遠の昔に「救われるグループ」に入れられたから。
神が救いに予定された人は、どんなに地の果てに住んでいようが、そこに伝道者を送られて救いを選択するように導かれる。
しかし、選ばれていない人は、テレビやネットで毎日福音を聞ける環境にありながら、信じることは絶対にない。
なぜならば、神の側で永遠の昔に「救われないグループ」に入れられたから。
5.
「これは、ひどい教えだ。救われないグループに入っていたら、どんなに救いを選ぼうとして努力しても救われないのか」というかもしれない。
「救われないグループ」に入っている人は「救われる必要性を感じない」。
なぜか。
霊的に死んでいるから。
アダム族から出る人は、生まれながらに死んでいる。
生まれながらに死んでいるので、救いについて「まったく、いかなる関心もない」。
「救われたい」と思う人は、すでに神によって「霊的に復活させられている」。
死んでいる人は、海の中に沈んでいても助けを求めてもがくことをしない。
生きているから、海面に浮上し、助けを叫び求める。
「自分には罪があり、このままでは地獄に行く」と恐怖を覚えているのは、生きている証拠である。
霊的に死産として生まれてくる人は、自分を罪人として認識せず、それゆえ、地獄に行く恐怖もない。
つねっても、叩いてもまったく痛みを感じない人と同じで、救いに関する一切が「くだらないこと」に思える。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かである(1コリント1・18)
だから、彼らは救いを求めて聖書を読むこともしないし、教会にも行かない。
福音は「他人事」である。
6.
「救われるグループ」は、「救われることによって神の栄光を表す人々のグループ」である。
彼らは、救われて、神の恵みを賛美し、善を行うことによって栄光を表す。
「救われないグループ」は、「滅びることによって神の栄光を表す人々のグループ」である。
彼らは、滅びることによって、神が義であり、悪を裁く方であることを表すことによって栄光を表す。
いずれのグループも、神の栄光を表すために創造された。
神は「究極的に、すべてのことをご自身の栄光のために行われる」。
その栄光をどのような形で表すか。
救いに予定されている人々は、救いの恵みを賛美することによって、滅びに予定されている人々は、神の義を表すことによって表現する。
われわれから見れば、滅びに予定されている人々は気の毒である。
しかし、神が決定されたことなのでどうしようもない。
7.
もし、神をこのようなお方として認識していないのであれば、その人はいくらクリスチャンを自称しても偶像礼拝者である。
「私は聖書の神を信じています」と言っても「永遠の予定」を信じるつもりがなければ、偶像礼拝者である。
聖書が神をこのようなお方として啓示しているからである。
人間中心に組み立てられた「キリスト教」において、神は人間の幸いに貢献する者である。
しかし、聖書は神中心主義であり、人間の幸いが中心ではない。
神の幸いに貢献するかどうかが主要なテーマである。
現代のキリスト教は、アルミニウス主義という人間中心主義に汚染されているので、予定論を受け入れない。
偶像礼拝者が救われることは絶対にない。