イエスの真の弟子はみなこちらを選択する
(1)
不思議なことだが、私は、騒乱に巻き込まれることがなかった。
巻き込まれたのは一度だけ、学生時代にサークル棟問題である。
各サークルには、旧木造校舎が一部屋ずつ割り当てられていたが、取り壊すということになり、代わりの新サークル棟が割り当てられたが、他の部との合同になるので各サークルは反対運動をした。
その問題発生がちょうど私が部長だったときのことで、厳しい場面に遭遇した。
しかし、それを通じて左翼系の学生と知り合うことができて勉強にはなった。
その中の一人はわれわれを通じてクリスチャンになった。
その後就職した会社では、業績不振によるごたごた問題(これを通じて所属していた本部が消えた)が始まる前に辞めたし、最初の教会において違法建築問題(教会が違法建築をしたことを問題視する教会員が匿名抗議した)が発生したときは、大和で伝道していたので騒乱に巻き込まれなかった。
それから2年後の長老追い出し事件においては、それが発生する前に神学上の問題で辞めた。
転会した教会では、牧師がフェデラル・ヴィジョンになって異端化する前にやめた。
私がいたころ、すでに異端化する兆候が見えたが、別の理由で辞めた。
神は混乱から救ってくださった。
(2)
いままで所属する団体でしっくりくるものはなかった。
後から考えると、福音派はディスペンセーショナリズムの影響を強く受けているので、合うはずがないのだ。
日々違う考え方をする人々の中にいて、矛盾に苦しんだ。
聖書的ではない考え方と接触することは苦しいが、問題意識は深まる。
違和感を感じる集団の中にいることは、自分を鍛えてくれる。
友人関係が良好な環境で過ごすことは、青春時代を無駄にしているようなものである。
楽しい時間は貴重だが、しかし、問題意識を持たないので、思想的に鍛えられない。
もし私が中学校で、親しい友人と別れないままであれば、問題意識は芽生えなかっただろう。
しかし、不思議なことに、親しい友人はみな転校して去っていった。
それまで群れを作ってバカな冗談をかわしながら楽しく送っていた学校生活は崩れた。
ちょうどその頃、父親が病気で倒れたこともあって、哲学的な問題への意識を持つようになった。
(3)
高校3年のときに、自分が考えていたことに回答を与えるような事件が起きた。
ある異端の人と札幌のまちで出会った。
彼は、アメリカ発のヒッピーのキリスト教系新興宗教に属する人でビラを配っていた(彼は日本人だった)。
UFOのことについて興味があったので、その人の話はおもしろかった。
次第にキリスト教を信じるように神は導かれていたので、少しの接点のある話でも興味深かった。
わずか1日の出来事だったが、私の人生に大きな影響を与えた。
(4)
大学の聖書研究会に入ったことは不思議な導きであった。
単位の取り方を知りたかったので、訪問した。
そこで、カルヴァン主義者に出会ったことは幸いだった。
素晴らしい人々だった。
明るさとやさしさと知的聡明さを兼ね備えた人々だった。
2〜3年先輩の彼らが卒業してからは、われわれ未熟な者たちが残った。
そこで部長をしたので、非常に苦労した。
これが大きなトラウマになった。
しかし、これも問題意識を深めるのに役立った。
先輩たちが卒業するまでの3年間は、ある種の天国状態だった。
人生で一番楽しい時期だった。
(5)
こうは言っても、聖書研究会のメンバーの中で誰ひとりとして、ヴァン・ティルに向かった人はいない。
だから、今でも彼らは福音派にとどまっている。
そのため、世間的な意味ではみな成功者である。
ある人は大学の学長をしている。
大学の教授、大企業の副社長、いろいろである。
私はここでも、導きの中にあった。
世俗的な成功など求めてこなかった。
ただ真理を知りたかった。
神はそのような道を用意され、しかるべき書物と出会わせてくださった。
それが神学校時代にアメリカで出会ったラッシュドゥーニーの著書だった。
それまで心の中で醸成されていた問題への解答がほぼすべて記されていた。
もし私が、孤独を味わわず、ただ楽しい人間関係しかなければ、中学時代に友人に恵まれたままであり、大学時代にあの天国状態がずっと続いていたならば、ここにはたどり着かなかっただろう。
(6)
ラッシュドゥーニーを紹介して一つ驚いたことは、自分の問題意識は、特別なものであったということだ。
「みなさん、こういう素晴らしい本があって…」と人々に説明しても、反応はなかった。
大学の聖書研究時代のクリスチャンに説明しても反応はなかった。
むしろ反発された。
そのときに、「私は特別に導かれていたのだな」と思った。
特別に導かれてきたことは、つまり世間的に言えば異端児になったということだが、時代がどんどん変わり、私が抱いてきた問題が世間においても現出するようになり、逆に問題を説明する立場に置かれた。
まだ世間がこちらの立場に理解を示す時期ではない。
しかし、いずれそうなるだろう。
ラッシュドゥーニーが聖書法綱要を書いたのが1970年代の前半である。
この霊的な流れに合流するように、整えられていたのだ。
福音派やリベラル派などにどっぷりとつかって問題意識がない人々は、世間的には成功できるかもしれないが、実際は滅びの流れの中にいる。
イルミナティ側は、ディスペンセーショナリズムを通じてキリスト教を異端化することに成功しているからだ。
このホームページを読んで理解できる人は、正しい聖書的なキリスト教への回帰の流れの中にいる。
この200年間の間にすっかりと騙しの中に入った世界から救われて、新しい世界へ導く人々である。
(7)
韓国人は肩書にこだわる傾向が強い。
だから、韓国人のクリスチャンは、米国の著名な神学校卒業の肩書を得るために頑張っている。
しかし、イルミナティの世界の中で成功して何になるのか。
一度限りの人生を人から褒められ、持ち上げられることのために使うのはバカらしい。
十字架の道とは、真理を求める道だ。
真理のために自分を犠牲にできる人だけがその道を歩むことができる。
イエスの真の弟子は、みなこちらを選択する。
だから私は、世俗的な権威を求めるような人と知り合う必要はまったくないと考えている。
忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、
党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。
患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、
栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。
神にはえこひいきなどはないからです。(ローマ2・7-11)
2015年2月10日
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