人間教は絶望と妄想のはざまで揺れ動く
1.
神学者ヘルマン・ドーイウェールトによると、ヒューマニズム(人間教)には2つの理想があるという。
ヒューマニズムの科学理想(humanist science-ideal)と、ヒューマニズムの人格理想(humanist personality-ideal)である。
ヒューマニズムは、この2つの間で揺れ動く。一方が立つと、他方が立たない。
永遠に解決しないジレンマである。
どういうことかというと、科学理想では「この世界は科学的因果律だけで動いており、神の出る幕はない」と考え、人格理想では「この世界の主人公は人間であり、人間が神抜きで自由に生活する」と考える。
どちらも「神からの解放」を目的としている。
しかし、科学理想を追求すると「厳密に科学的因果律によって世界が動くのであれば、権力者や金持ちが勝って、弱者は滅びるしかない」と諦めるしかなくなる。
神の出る幕がないので「祈りは気休めでしかなく、ダビデがゴリアテに勝つことなどあり得ない」となる。
すると、「人間がこの世界で、神の法に縛られずに生きるなど不可能だ」となる。
逆に人格理想を追求すると「科学の法則、実証が無意味になり、妄想の世界が広がり、結局世界がおかしくなる」となる。
たとえば、韓国などのように歴史的な検証を行わずに「日本人は韓国人慰安婦20万人を奴隷としてこき使った」と主張し、世界中に慰安婦像を建てると、次第に妄想の世界の中に入り込んで現実との折り合いがつかなくなる。
「ウソも百回言えば真実になる」政策で突き進むと、あらゆる分野で賄賂や反則を犯して、人々から嫌われ、ハブられる。
科学理想は、人々を絶望に追いやり、人格理想は、人々を破滅に追いやる。
結局、共産主義社会は、歴史の中でこのジレンマを体現する結果となった。
ソ連しかり、中国しかり、北朝鮮しかり。
宗教を非科学的と罵りながら、しかし、自分たちはウソと謀略と窃盗だけで生き残るしかなくなった。
神が不在の世界では、科学理想も人格理想も「絶望と偽善」しかもたらさない。
ヒューマニズムに汚染された戦後の資本主義世界においても、この傾向は存在する。
神が不在なので「急激に勢力を拡張する中国にすり寄るしかないのではないか」と言って、中国に資本を移した。
結局は身ぐるみ剥がされて追い出される結果になるのが明らかなのに。
倫理を無視して力に頼ると、結局、どちらも得られない。
聖書的キリスト教は、この2つの理想を持たない。
神は「自由と合理性は、契約遵守に依存する」と言われる。
聖書は「契約主義」つまり「倫理主義」を教えている。
「力が強いからといって勝利するわけではない。信仰と神の法を守ることによってのみ勝利する」と教える。
「科学を発達させ、軍事力を高めることにより世界を支配できる。覇権を拡大するには、スパイと情報統制による」と考えたソ連は破滅した。
違う!
神の法を守り、「われわれは神の力によって勝利できる!」と信じる人が勝つのである。
キリスト教界でも、ヒューマニズムがはびこっているので、人々は「信仰による勝利」を唱えない。
政治的権力や経済力に信頼する。
学界が進化論を奉じれば「世界が六日で創造されたなんてトンデモない」と同調する。
ローマ・カトリックを中心とした「世界統一宗教」という名のルシファー教に巻き込まれる。
「結局、ゴリアテには勝てないよね」という諦めに至る。
2.
カント主義は観念論であり、人間の観念が世界を形作ると考える。これは、ヒューマニズムの人格理想の代表である。
観念論は、ロマン主義に変わり、19世紀にヘーゲルが、20世紀にはマルクスのロマン主義(マルクス本人は実証主義だと考えていたが)が世界の学界をも支配した。
ロマン主義がはびこってあらゆる学界が再編されるにつれて、反動が起きた。
実証主義である。「現実に帰れ!」と叫んだ。
しかし、実証主義を徹底すると奇跡はありえない。
奇跡を否定すると「どんなに頑張っても弱者が強者に勝つことはできない」と諦めるしかなくなる。
ある人々は「科学法則が徹底して支配すると考えると夢も希望もない」と気づき、実存主義が現れた。
3.
科学法則は、神のしもべなのである。
神が世界を支配するために設定したルールである。
それは、神が組んだプログラムなのである。
プログラマーがそのプログラムに支配されないように、神も科学法則に支配されない。
「いつもは物体には引力が作用するというシステムが働くが、今は一時的に作用しないようにシステムを止めよう」と言われたので、エリヤやエゼキエルやイエスは空中に昇ったのである。
科学理想を持つ人々は、「プログラムは絶対だ。プログラマーですらそれに支配されているので、一度書いたプログラムを書き換えることは不可能だ」と言っているようなものである。
4.
奇跡を否定する人は、ヒューマニズムの科学理想の罠にはまっている。
その人は、ヒューマニズムの人格理想を捨てるしかない。
二つを両立するには、聖書的因果律を信じるしかない。
つまり、契約主義である。
世界は契約を中心に回っている。
人間は、どんなに優秀で、力があり、財力があっても、神に敵対したら滅びる。
逆に、どんなに能力に劣り、力がなく、財力に乏しくても、神にしたがっていれば繁栄する。
幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。
それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。
まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。(詩篇1・1-6)
2019年2月5日
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