平等主義の日本人クリスチャンは生得の権利を放棄している


「@ネットで流行最近の「スピリチュアル」について語る 苫米地英人」
https://www.youtube.com/watch?v=hJCtJ1YFULE&spfreload=10

苫米地氏は、私の友人T氏の大学時代の同級生である。

T氏によると、非常に頭がよく、英語の力も抜群であったそうだ。

著書を出し、TVやインターネットでも頻繁に見かけるが、残念ながら私とは意見が異なる。

スピリチャル系の危険について氏の説明:

1.大宗教(仏教やキリスト教など)では魂に生まれながらの差をつけない。

2.しかし、スピリチャル系では現世は前世の結果であるとするので、差別主義である。

3.それゆえスピリチャル系は危険である。

スピリチャル系が危険であるのは同意するのだが、理由に納得できない。

私の見解:

「聖書は、生得の権利を認める。つまり、差別主義である。」

神は天地が作られる前の永遠の昔に、救われる人と滅びる人を分けられた。

人間の側から見ると「究極の差別主義」である。

人間は、この運命について文句を言えない。

神が予定された人はどんなことがあっても必ず救われ、予定されていない人はどんなことがあっても必ず滅びる。

「え〜、神は愛なので、そんな予定するはずがありません!」という人は、神よりも上位にいると宣言した。

つまり、予定論を拒否する人は、自らを神と宣言した。


その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、
「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。
それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。
神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。
したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。
聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と言っています。
こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。
すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」
しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか」と言えるでしょうか。
陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。
ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。
それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。(ローマ9・11-23)

ここでパウロははっきりと、

しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか」と言えるでしょうか。

と、予定論に反対する者に対して「僭越だ!」と非難している。

被造物が創造者に文句をつけることは一切できない。

創造者がご自分の目的のために造られた秩序を被造物は非難できない。

ある人は、「でも、それじゃあ、神は愛ではなくなります」というかもしれない。

しかし、それは、その人の定義した「愛」であって、聖書が定義するそれではない。

その人は「万人を平等に愛するお方」と神を定義し、「ある者を救いのために予定し、ある者を滅びのために予定されるお方」とは定義していない。

つまり、その人は、偶像礼拝をしている。

神ではない存在を神として拝んでいる。

それゆえ、すべての非予定論者は、偶像礼拝者である。

彼は、自分の理想する神を像に刻む仏教徒と同じである。

自分が主であり、神は従者である。

本当に神を拝む人は、「聖書が啓示しているとおりの神を拝もう」と心に決めて、実行する。

神は、偏愛するお方である。

「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」

実際、遺伝的に見ても、神はある人に才能を与え、ある人に資金を与え、ある人に美貌を与えられる。

生まれつき、人間は差別的に扱われている。

平等を絶対善とする人々は、神を非難する。

「なぜ、私に才能を与えてくださらなかったのですか?」と。

自分で神を定義し、自分の望む世界を神に押し付けるからこういう非難が生まれる。

われわれは被造物であり、神が定められた運命について一切、文句を言ってはならない。

なぜならば、この世界では、「神の決定は常に善である」というだけではなく、そもそも「神が下された決定を善と定義する」が真理だからである。

「神は美しい」という表現は間違いである。

「神が美の基準である」が正しい。

「神は正義である」はだめで、「神が正義の基準である」が正しい。

なぜならば、万物は神に創造され、創造以前に基準はまったくなかったからである。

ローマ・カトリックは、神の創造の前に「自然秩序」があったと考える。

だから、神はその自然秩序の中の一人のプレーヤーになる。

神すらもその自然秩序の法、つまり、自然法によって裁かれる対象となる。

それゆえ、ローマ・カトリックはキリスト教ではなく、「自然教」である。

神は、ある人々を救いに予定され、その人々が世界を支配するように定められた。

神は、ある人々をその世界支配を妨害する者として造られた。

どちらも神の舞台の上の役者である。

モーセもパロもどちらも神の予定によって定められた役者である。

モーセはイスラエルを解放する者として選ばれ、パロはそれを妨害する者として選ばれた。

パロの側からすればいい迷惑だが、しかし、被造物として「迷惑だ」と言ってはならない。

なぜならば、そのように悪役に生まれたことが神の決定だから。

神の決定を善と定義するので、それに逆らうことは人の目にいかに合理的に見えても悪である。

人は、生まれる前から予定され、差別されている。

日本に生まれてきたわれわれは、とてつもない幸運に恵まれている人々である。

世界では、生まれた国が戦場であったり、飢餓状態にあったり、奴隷制度がしかれていたり、命が軽視される国である人々のほうが圧倒的に多い。

もし本当に平等主義を主張するなら、日本に生まれた幸いを否定すべきである。

しかし、われわれのうちでこの幸運を捨てる人はいないだろう。

われわれは、本質的に、生まれながらに差別的に扱われていることを認め、賛成している。

クリスチャン・ファミリーに生まれた人は、生得的に王の権利をもって生まれてきた。

つまり、聖書の約束「クリスチャンは王である」を受けて生まれてきた。

だから、平等主義を主張するクリスチャンは、自らの権利を放棄する愚か者である。

われわれが祈って努力すれば、時間とともに必ずわれわれは王になれる。

われわれの子孫は、必ず王となり、世界を支配するようになる。

この契約的特権を否定するために編み出されたのが共産主義である。

クリスチャンから資産と土地を奪うためにサタンが編み出した教えである。

だから、共産主義教育の基本は平等主義なのである。

平等主義を主張することは、われわれの生得の権利である日本人であること、そして、クリスチャンとしての王の権利の放棄である。

 

 

2016年5月15日



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