完全否定できない場合


誤解していただきたくないのだが、日本におけるイエズス会などカトリックの伝道や、ディスペンセーショナリズムの教会やクリスチャンの活動、また、ロスチャイルドのバックアップを受けた宣教師たちの活動は、まったく無駄であるとは思わない。

なぜならば、彼らも御言葉を伝えているからだ。

畑を荒らす猪の皮膚の表面についた穀物のタネが別の地に落ちて発芽するように、彼らの本当の意図とは違うが、福音や聖書が異教の地にばらまかれてそれが発芽することもある。

南米のインカ帝国やアステカ文明に入って住民を虐殺して、奴隷にしたスペインなどのカトリックの勢力が、ただ滅ぼすだけだったかというと、そこにキリスト教文化が広がった。

もちろん、南米はカトリックの文化であるから本当のキリスト教とは違うが、しかし、血で血を洗う南米土着文化よりははるかにましである。

南米の遺跡の神殿の柱の下には無数の若い女性の骨が埋まっている。いけにえとして生きながら埋められたのだ。

こういう悪魔に支配された文明(?)が続くよりは、カトリックによって支配されたほうがいい。

しかも、カトリックは不完全ながら聖書を用いる。だから、人々に聖書の価値観が根付く。

まったく聖書に触れないよりも、少しでも触れたほうがいい。

それゆえ、神は帝国主義者、ローマ・カトリック、ロスチャイルドの東インド会社、イルミナティのディスペンセーショナリズムなどの活動をあえて許され、それを通じて御言葉をばらまいておられる。

この世界の活動に100%の純粋性を求めることは不可能である。

ただし、じゃあ、われわれが所属する教会がローマ法皇を拝むように命令しはじめたらどうするのか。

もちろん、教会の権威に訴えてやめるように求め、それでも聞かれなければ脱会するしかない。

まともな教会に転会するか、自分たちで新しい教会を作るべきだ。

自分本人の身辺の清潔は自分の権威の範疇にあるから完全を志向すべきだろうが、他人は自分の権威の範疇外なので、その行動に完璧を期待することはできない。

他人は他人としてやらせておくしかない。


ヨハネがイエスに言った。「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。{私たちの仲間になろうとしなかったからです。}」
しかし、イエスは言われた。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。」(マルコ9・38-39)

聖書的な活動とは、他人の自由意思を最大限に認めるものである。

こちら側にやってくる人は受け入れ、拒絶して対立する人々は放置し、反福音的活動をする人々は、パウロの呪い(*)をかけつつ、放置すべきだ。

(*)
「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」(ガラテヤ1・8)

 

 

2013年3月10日



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