幼児洗礼・幼児陪餐を拒否する親は子供を呪っている


創世記17章9-14節、21章4節、出エジプト記12章48節、レビ記12章3節において、割礼が命令されている。

割礼とは、神との契約の象徴である。

割礼を受けていない場合、過越に参加できなかった。(出エジプト記12:48)

過越は、新約時代になって聖餐になったので、過越に参加できないということは、贖われた神の民の一員ではないことを象徴している。

それゆえ、割礼は新約時代のバプテスマに相当すると考えられる。

われわれはバプテスマを受け、聖餐を受けることによって、自らが贖われた民であることを示す。

この世界において、様々な関係がある。

親子関係、親戚関係、労使関係、教師と生徒の関係、結婚関係、・・・

これらの関係の中でもっとも重要な関係とは、神とその民との関係、つまり、聖書契約である。

神が尊いひとり子イエス・キリストを十字架につけて殺されたのは、この関係を樹立するためであった。

神とわれわれが契約を結ぶために、神はひとり子を犠牲にされたのであるから、その契約は、世界の中においてもっとも重要な関係である。

われわれは、この関係を守るのに必要であるならば、その他のどの関係であっても即座に破棄すべきである。

さて、このもっとも重要な関係について、神は「生まれた子供に8日目に割礼を施せ」と命令された。

これは、神の選びを示している。

すなわち、「契約の民から生まれた子供は、契約の民である」ということを神が言われた。

民は勝手に「子供には理性がないので、信仰の決断はできない。だから割礼を授けるべきではない」などと言ってはならない。

神が「お前の子供を私は救いの中に選んだのだから、その象徴である割礼を授けなさい」と命令された。

信仰は律法を確立する。


それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。(ローマ3・31)

となれば、この「幼児割礼」の命令は、新約時代において確立されなければならない。

つまり、「契約の民の子は、契約の中にいる」という旧約律法の原理を新約時代にも適用し、「クリスチャンの子は、クリスチャンである」と考えるべきである。

それゆえ、われわれは、子供が生まれたら8日目にバプテスマを授け、救いの中にいると宣言し、聖餐にあずからせるべきである。

幼児洗礼をしない親は自分の子供を「救いの外」に置き、聖餐を拒絶することによって、救いの恵みから排除している。

親が子に陪餐停止処分を下して、どうして子供が祝福を受けるだろうか。

神が「わたしはお前の子供を永遠の救いに選び、契約の中に入れた」と宣言しておられるのに、どうして「いいえ。この子はまだ救われていませんし、契約の恵みの中にもいません」と言うのか。

幼児洗礼・幼児陪餐を拒否する親は、子供を呪っているのである。

 

 

2016年8月23日



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