神の国は素直な人の集団である
聖書では、「自分で復讐してはならない」とある。
そして「復讐はわたしがする」とも。
私は、自分が祈ると、聞かれることをひしひしと感じる。
政治の分野でも、自分が助けを求めると、その人が元気になって、周りが黙る。
中華人民共和国と韓国については呪いをかけている。
侵略しようとして、世界中で日本を貶める活動をしているからだ。
こちらに非があるならいい。
事実無根なことをねつ造して、貶めようとする。
こんなことが許されるわけがない。
われわれは、個人的な復讐はすべきではない。
われわれが望むのは、正義の実現である。
中傷して他人を貶めるような陰謀、謀略は、正義に対する挑戦であり、神の国を破壊する行為だから呪いをかける。
中国や韓国が世界で覇権を取っていいことなんてあるわけがない。
チベットやウイグルで起こったような、歴史上かつてなかった大量虐殺が日本やアジアの他の国々で起きるのは明らかである。
われわれは、理不尽なことがあれば、それが正されて神の御心がなるために祈るべきだ。
ある牧師が、「自分の息子にはスポーツをさせた。なぜならば、理不尽な体験をすることによって成長させたいから」と言った。
しかし、私は、理不尽なことに耐えるべきではないと考える。
もちろん、環境的に自分にそのような事態が起きたのであれば、それが神の御心ならば訓練として受けるべきだろう。
しかし、進んで理不尽な場に行く必要はない。
いや行くことによって、心がゆがむ恐れがある。
理不尽な体験をすると、それは遺伝する。
自分が虐待された人は、下の人にそれをやるものだ。
できる限り、自由な環境を作るべきだ。
人間関係が絶対で、理に適ったことが通用しない社会でずっと生き続けると、下の人にそれを押し付けるものだ。
これは偶像礼拝だ。
人間を神とすることだ。
それを子供や生徒などに押し付けるならば、彼らを偶像礼拝者にしてしまう。
私は、自分はできる限り、人に対して理不尽な要求をしないように努めている。
自分に非があれば謝罪する。
昔、友人と寿司屋に入って、カウンターから離れたところで会話し、自分の理想について語り合っていると、その店長が「みんな、理想を求めて、失敗するんだよな」と言ってきた。
無視したが、驚いた。
板前の世界は、理不尽なことに耐えることが修行である。
先輩後輩の秩序が絶対である。
このような偶像礼拝の世界に居続けることによって、心がゆがみ、夢を見ることができなくなる。
また、夢を見ようとする人を揶揄する。
こんな人間になるのが修行なのだろうか。
私は、夢に向かって努力する人を激励したい。
喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。(ローマ12・15)
貧しい人と共に心を低くしている方が、傲慢な者と分捕り物を分け合うよりよい。(箴言16・19)
2015年3月9日
ホーム