あなたは何を土台として家を建てるつもりか



だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」

土台というものは、硬く動かないものでなければならない。

そうしないと、自分が立てた家が傾いてしまう。

クリスチャンの認識論は硬い岩に立っているので崩れない。

しかし、ノンクリスチャンの認識論は砂の上に立っている。

だから、最後には崩壊するのである。

これは、土台の選択を間違ったのだから、破局に至る以外にはない。

クリスチャンの認識論は、基準を神に置いている。

神は、創造主であり、万物の第一原因である。

世界において創造されたもの以外のものはない。

時間と空間というシステムそのものが創造の産物である。

だから、万物にとって基準は神である。

神によって創造されたのであるから、基準は神である。

筋が通っている。

しかし、ノンクリスチャンの認識論は、矛盾だらけである。

ヒューマニズムの認識論の基準は人間である。

人間は、創造者ではない。

だから、基準にはなれない。

デカルトは、「我思うゆえに我あり」といった。

「あらゆるものは疑いの対象である。為政者が本当のことを言っているかわからない。宗教教義も本当かどうかわからない。民衆の話も本当かどうかわからない。唯一疑うことができないものは何か。それは、疑っている私である。今疑っている私は、絶対に存在する。だから、この疑う自分を基準にして認識を周りの世界に拡大していくのがよい」というのがヒューマニズムの基本である。

しかし、人間は、自分のことすら知らない。

人間は、時間とともに自分を発見する。

自分の体内で今何が起こっているかも知らない。

癌が発生しているかもしれない。

検査ではじめてわかる。

そのように未知の部分をかかえた存在が基準になれるはずがない。

しかし、聖書の神は、ご自身について未知な部分は少しもない。

神はご自身について完全な知識を持つ。

だから、基準になれる。

クリスチャンは、徹底的に物事を突き詰めて考えるべきだ。

権威と呼ばれているもの、たとえば、権威ある学者の意見とか、学校の先生の意見とか、牧師の意見とか、本当かどうか確認すべきだ。

となると、究極的には、権威は、被造物ではありえない。

被造物は未知である。被造物は変化する。被造物は有限である。

ある一時期に成立したものである。無限の昔から存在するものではない。

無限の昔から存在したもの。それは、神である。

創造以前には、神しか存在しなかった。

神の知識こそが永遠に存在する唯一の知識であり、絶対の知識である。

だから、これだけが、われわれの知識の土台である。

ヒューマニズム自身が、人間自身の知識の限界をわきまえている。

たとえ現象の世界について科学によって知識を得たとしても、物自体の世界、意味の世界、道徳の世界、霊の世界、死後の世界などについては、科学的検証は及ばない。

だから、人間の知識ははじめから有限であると認めている。

科学の知識とは、経験が及ぶ、暫定的な知識に過ぎない。

手に持っているコップを放したら下に落ちるかどうか「絶対的確実性をもって」下に落ちると予測はできない。

なぜならば、「引力の法則がいつでもどこでも必ず働く」ということは証明できないからだ。

予測できるのは、ただ経験的アナロジーによってだけである。類推によってしか未来のことは何一つ予測できない。

だから、人間が知識の基準になるということは、ありえないのである。

それは、科学的発見によって常に変わる性質のものである。

このようなものが土台になるだろうか。

それは、砂である。

いつも揺れ動く泥である。

だから、われわれにとって、その上に世界観を作ることははなはだしく危険であるといわざるをえない。

ヒューマニズムの認識論に基づいて考える場合に、死後の世界については何もいえない。いえるとすれば、「僕はこう思う」としかいえない。

しかし、神が知識の基準であれば、われわれは科学的方法によって及ばない知識を得ることができる。

「聖書によれば、死後の世界はこうだ」といえる。

われわれの知識は首尾一貫している。

「いや〜、聖書はどういうか知らないが、私はこう思うね」という人は、自分の人生を大きな博打と見ているのだ。

死後に、本当に裁きがあり、自分の犯したすべての罪の代償を永遠の刑罰として支払わなければならないとしたらどうだろうか。

気づいたときは遅いのだ。地獄から出ることは永遠にできない。

だから、われわれは、万物について完全な知識を持っておられる神の啓示に従うのが正しいだけではなく、安全でもある。

人生を不確かなものにかけるのか。

泥や砂の上に家を建てたいか。

われわれは、自分の知恵に頼らない。

聖書にしたがって確信を持って生きる。

われわれは、自分の知識を土台として生きるならば、弱くなる。

なぜならば自分で自分が頼りないことを知っているからだ。

その場合、人間に依存せざるをえなくなる。

組織とか、世俗の権力とかに頼らざるをえない。

それは、奴隷への道である。

人に頼ることによって、いろんな問題が発生する。

他者に甘える人は、甘える対象に負担をかける。

甘えるという行為は、「要求」や「操作」でしかないからだ。

子供に頼る人は、子供に負担をかける。子供は期待に押しつぶされる。

社会の中で他人の評価を気にして生きる人は、他人から鬱陶しがられ、馬鹿にされて、軽蔑やいじめや利用の対象になる。

われわれは、神に依存すべきだ。悩みがあれば、神に相談せよ。

心配なら神に祈れ!

神との間で問題を解決せよ!

もちろん、人間にアドバイスをもらうことは間違いではない。

しかし、依存してはならない。

でれ〜っと相手に体重を乗せるな。乗せたら、相手がつぶれてしまう。

神に祈って、神にすべてを求めよ。

神から回答をいただいたら、それが最善だと分かるだろう。

そうやって自分と神との間で問題を解決する訓練をせよ。

それだけが、唯一の正しい生き方だ。

バプテスマのヨハネは、荒野で毛皮を着、イナゴと野蜜を食べて暮らした。

それは、当時の堕落した宗教システムに加わることによって、自分も堕落することを回避するためだ。

律法学者やパリサイ人、サドカイ人らのグループに入って彼らから助けてもらおうとすると、彼らの仲間になって神に敵対することになるからだ。

われわれが社会を作り、互いに助け合うことができるのは、神と自分との関係が損なわれない範囲においてだ。

人間が神よりも重要になるような関係を避けなければならない。

神にだけ頼る訓練を積み、百戦錬磨になることがクリスチャンとしての成長である。

何かデボーションなるものをして「霊的」になることが成長ではない。

人間依存や組織依存があるクリスチャンは、どんなに神学校で教えていても、教団の幹部であっても、幼児のクリスチャンである。

パウロは、公生涯に入る前に、砂漠で2年間人間と接触しないで暮らした。

人間に頼らない訓練を積んではじめて宣教活動ができるようになった。

自立こそが本当の働きの前提だ。

そのためには、聖書だけを基準とするという、聖書的認識論を確立しなければならない。

あなたは、何を土台として家を建てるつもりか。

 

 

2011年2月6日

 

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