「今は世の終わりだから悪いことが起こっている」と考えたくなるだろう。
とくに、こんな未曾有の震災が起こっては。
違う。
「世の終わり」だから起こっているのではない。
「時代」の終わりだから起こっている。
ある時代が過ぎて、次の時代が到来しようとしている。
だから、大きな変革が起きている。
聖書の文脈を無視し、時代背景も考えずに解釈する人々は、マタイ24章は「現代についての預言だ」という。
しかし、イエスは、はっきりと「これらのことは、この時代が過ぎ去る前に起きる」といわれた。
まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。(マタイ24・34)
「これらのこと」とは何か。
地震や飢饉、戦争、戦争のうわさ、偽キリスト、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見ること・・・である。
こういったものは、「この時代」のうちに起きると予言された!
もし、「これらの前兆はまだ起きていない。われわれの未来に起きる」と解釈できるならば、キリストは嘘をついたことになる。
もしくは、キリストの予言は外れたと。
未来派(ノンプレテリズム)を採用するならば、このようにキリストを偽り者、偽預言者とするのである。
「人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見ること」(30節)に注目してほしい。
マタイ24章を未来予言と捉える人は、これを「再臨」と考える。
プレ・ミレなど未来派の解釈では、これは、われわれの未来に起きるという。
しかし、キリストは、「これも、同時代のうちに起きる」(34節)と宣言された。
ということは、いわゆるプレ・ミレの人々が想像する「雲に乗ってやってくる再臨のキリストの図」は、まったくの間違いだったということになる。
これからこのようなことは起きない。
それは、紀元一世紀に起きた。
われわれの時代に関する予言はマタイ24章にはまったく記されていない。
「いや〜、そうならば、聖書予言にいかなる意味があるのですか。われわれと関係がないと解釈したら意味がなくなってしまいます」というだろうか。
それに対して、こう答える。
「それじゃあ、紀元前8世紀のエドム人に対する預言者の崩壊預言は、われわれにとって意味がないのでしょうか?」と。
いわゆる預言の二重性(預言は、当時の人々向けと現代人向けの2重の意味があるとする説)という奇妙な解釈法を適用することはまったくできない。
なぜならば、イエスは「これらはこの時代に起きる」と預言成就の時期を限定されたからだ。
それに対して「いや、これらは現代にも起きるのですよ」といったら、イエスの御言葉に真っ向から敵対することになる。
こういう解釈は、「読み込み」というやつで、絶対にやってはならない解釈法である。
自分が聖書に教えてあげる方法である。
自分がイエスに対して「イエス様、あなたの言葉には間違いがあります。あなたは、これらの前兆はこの時代に限定されると言われましたが、私たちはそのようには解釈しません。私たちはあなたの預言の言葉に現代的な意味を加えたいのです。ですから、私たちは、それは、現代にも成就すると主張します」といっているようなものだ。
どうだろうか。
傲慢だろう?
このような傲慢は、異端のそれである。
聖書に追加するである。
「これらは、イエスと同時代にすべて起きる」とイエスが言われたら「すべて」起きたと信じなければならない。
御言葉に関する逸脱は恐ろしい罪である。