聖書は前提であり疑いから出発することは罪である


現代人は、深くカントに汚染されている。

聖書は、人間理性で評価することはできない。

なぜならば、神の言葉だからだ。

神の言葉を人間がジャッジできるとすれば、それは、神の言葉ではない。

もし神が世界を無から創造されたとしたら、神は基準であって、裁かれる対象にはならない。

神を裁くならば、その裁いた人間が裁いたものは神ではない。

それは、あたかも世界一高い山よりも高い山に登るようなものだ。

つまり、「登れない」のだ。

もし登ったことがあるという人がいれば、その人は嘘をついている。

世界一高い山よりも高い山は存在しない。

その存在しないものに登ることは絶対にできない。

神よりも高い基準はこの世界に存在しないのだから、神を裁くことは不可能であり、神の言葉を裁くことも不可能である。

だから、神の言葉をジャッジしようとする議論は、まったく無意味であり、そんなものに対応することは、時間の無駄である。

われわれクリスチャンは、聖書を絶対的基準として以外に考えてはならない。

そして、クリスチャンだけではなく、ノンクリスチャンもそのようにしてはならない。

なぜならば、神はクリスチャンの神だけではなく、ノンクリスチャンの神でもあるから。

もし、頑固に、神と神の言葉を裁き続けるならば、神は力をもってその人に報いる。

つまり、裁きである。

歴史学の証拠だとか、考古学の証拠だとか、聖書内の矛盾だとか、いろんなものを持ち出して議論をすることそのものが冒涜であり、われわれはその冒涜を見ることすら汚れていると考える。

だから、われわれ一切相手にしない。

相手が待ち構えている土俵は、徹底して汚れており、そこにはサタンが行司を務めている。

サタンが行司を務める土俵に入ることは罪であって、それは、「誠実な試み」ではない。

「さあ、何を言っているのですか。公平な中立的立場に立って、クリスチャンとノンクリスチャンは聖書が正しいか議論しましょう」というような誘いは、罪へのいざないである。

その中立的立場、中立的土台こそが、悪魔の罠なのだ。

この世界に中立など存在しない。

神の啓示によって示されたものが絶対的価値であり、真理なのであるから、「宗教を離れた中立の土俵」は、「神を否定した悪魔の土俵」である。

「いやあ、私は神を否定しようというのではないのです。ただ、宗教的教義は、脇において、神の創造を前提としないで議論をしましょうと言っているだけです」というのは、「自分が神に命令されている『すべてを神の創造を前提として議論せよ』という掟を破ること」を意味する。

このような中立教を作ったのがカントのヒューマニズムである。

それは、悪魔の教えである。

この悪魔の教えに従って、敵側が作った土俵に上って相撲を取っているのが、今のクリスチャンである。

聖書は前提であって、聖書が正しいか間違っているかは議論の対象外であり、そのような議論をすることは罪であり、永遠の刑罰に値する。

 

 

2012年8月9日





 

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