ユダヤ化されたキリスト教 by ジョセフ・マッカーシー上院議員3
マッカーシーが語っていることが分かる人は、イエスの仲間、つまり、キリスト系列である。
分からない人は、(知識がない人を除いて)バビロン系列である。
この2者は選びであるのでどうしようもない。
人間の側ではいかんともしがたい。
結婚した人の間で、この違いがある場合にはきつい。
共同で神の国建設ができない。
知識がつけば変わるというものでもないから、ずっと中心的な関心が異なるまま暮らす以外にはない。
これも夫婦の形ではあるが、しかし、本来の神の国を作るために神に与えられた夫婦の関係ではないので、大きなハンデを背負っている。
一番望ましいのは、夫婦そろって同じ理解に達することだ。
これは、同じ霊がなければ実現しない。
同じ神の霊を受ければ、必ず理解できる。
ここで扱っているのは、われわれの本質の本質の本質の部分である。
宗教は本来この心の一番奥にある部分を扱う。
儀式や礼拝出席などはそれに比較すれば軽いものだ。
問題は、「どういう世界観を持っているか」である。
何を大切にし、何のために人生を使いたいと思うか。
心が生まれ変わり、神の霊を受けると、「地を従えよ」との命令を実現したいと心から望む。
しかし、神の霊を受けていないと、そんなのはどうでもよくなる。
関心は、神のことより自分の願望の実現である。
どうして同じくびきをともにできるだろうか。
パウロは相手が離れていくならば、そのままにしなさいと書いてある。
だから、再建主義の立場に立つことによって、奥さんや旦那さんが離れていくケースがある。
クリスチャンファミリーなのに。
それは、仕方がない。
心の奥底において回心が起きていない人を引き留めることはできない。
われわれの使命、この時代に生まれ、この環境と情報の中で、われわれが存在する意義とはなにか。
バベルの塔を破壊することだ。
コーンウォリスの言葉を思い出してほしい。
200年もたたないうちに全国民は神聖なる世界政府のために働くようになる。…すべての宗教に、ユダヤ教の教義が浸透するが、誰もそれに気づかない。人々は、フリーメイソンの『偉大なる建築者』の目に見えぬ『万物を見通す目』のもとに置かれるだろう
2015年3月23日
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