われわれはどう転んでも勝利する
「これらのすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださった方によって圧倒的な勝利者である」(ローマ8・37)
災害、死、犯罪、病気などの苦難にあったときに、もし天使が現れて、「お前はもうだめだ」と宣言したとする。
われわれはどう答えるだろうか。
「私は圧倒的な勝利者です」と答えるべきだ。
なぜか。
「私たちを愛してくださった方によって」。
神がわれわれの味方ならば、どうして敗北するだろうか。
ディスペンセーショナリストは、こういうだろう。
「あなたは、理想主義者です。現実を見なさい。」と。
これまで会ったディスペンセーショナリストみなこういった。
「現実を見ろ」というのは、「自然は基準である」というのと同義である。
「目に見えること」「科学で証明されたこと」「自分の感情」などを御言葉に優先させる人は、自然主義者である。
エバは、「好ましく見える」がゆえに禁断の実を食べた。
彼女の神学は、「神の言葉が何であれ、自分にとってそう思われるほうを優先する」というもの。
このような立場を取り続ける以上、運命論者になる。
ディスペンセーショナリストは、大きな災害や事件がおきるたびに「終末は近い」という。
911事件が起きると「終末が始まりました」と宣言する。
地震、津波、原発事故が起きると「ほら、終末のしるしだ」という。
彼らは、聖書からまったく裏付けられない。
聖書は、「これらのすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださった方によって圧倒的な勝利者である」と宣言しているのに。
われわれは、どう転んでも勝利する。
歴史が始まる前から、すでに勝利は決定されている。
「地を従えよ」という命令に違反するどのような聖書解釈も受け入れてはならない。
2011年4月28日
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