要は、バランスだ


どこの教会でも教えていることだろうが、聖書を理解するには、聖書の外的照明と聖霊の内的照明が必要である。

この2つがそろわないと理解できない。

聖霊は、御言葉を思い出させてくださる。

または、聖書を読んでいる際に、「わかった!」とインスピレーションを与える。

これは、神学の過程でも同じことで、神学が単なる歴史的・文法的な研究にとどまると、おかしいものになっていく。

聖霊による内的照明がなければ正しく導かれない。

その逆も真である。

聖霊だけ求めて聖書によってチェックしないと、容易に騙される。

人間の心は暴走する。

暴走を止めるのは、聖書である。聖書に違反する教えならば、それは、聖霊の教えではない。

なぜならば聖書は聖霊が記されたものだから。

ニューエイジに騙された今のキリスト教界では、「聖霊が強調される」ために、「聖書のチェックが軽視される」傾向がある。

おそらく、デボーションなるものは、エキュメニズムを通じてヒンズー教の瞑想が入り込んだものだろう。

こういう内省的な行為が強調されると、教理の研究がおろそかになる傾向がある。

最近の傾向は「教理なんて勉強すると暗くなります!命がなくなる!」というようなものだ。

見事にサタンに騙されている。

サタンはわれわれを「御言葉」から引き離そうとしているのだ。
教会成長学による経営学の導入もそう。

「人が救われることが大切なんだ。神学や教理なんてどうでもいい!」という風潮が生まれた。

要は、バランスだ。

 

 

2011年5月16日

 

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