われわれは、あまりにもヒューマニズムに慣らされているので、思考が聖書の考えになじまない。
ヒューマニズムと聖書とはまったく違う。
だから、ヒューマニズムの常識のまま聖書の世界に入っても理解不能である。
聖書によると、世界は、「ただひたすら神の栄光のために」創造された。
善人も悪人も「ただひたすら神の栄光のために」創造された。
主はすべてのものを、ご自分の目的のために造り、悪者さえもわざわいの日のために造られた。(箴言16・4)
善人は、救われて、祝福されることによって神の栄光を表し、悪人は、滅んで、呪われることによって神の栄光を表す。
地獄は、神の栄光を表すための場所である。
罪を犯して、悪事を働いた人々は、永遠の業火の中で苦しむ。
それによって、「神は正義のお方だ」ということが明らかになる。
神は、あらかじめ人々を、救いと遺棄に予定された。
これを二重予定という。
人々がまだ生まれていない前に、すでに決定された。
その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。(ローマ9・11-13)
誰が善を行い、誰が悪を行うかも永遠の昔に決定された。
神は超越者であるから、被造物と無関係におひとりですべてを決定された。
悪人として選ばれた人々は、こう叫ぶかもしれない。
すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」(ローマ9・19)
これは、被造物として発してはならない言葉である。
超越者であり、主権者である神には、被造物をどのように用いるか自由である。
しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。(ローマ9・20-21)
形造られた者は、形造った者に何も言えない。
「滅ぼされるべき怒りの器」(ローマ9・22)として創造された人々については、われわれは気の毒としか言いようがない。
しかし、だからといってわれわれは、「神様、なぜ彼らを滅ぼされるべき怒りの器」として創造されたのですか?ひどいです、とは言わない。
われわれには、そのようなことを言う権利はない。
ただひたすら、「あなたがなさることは、ことごとく正しい」と言わねばならない。
誰も1メートルの原器に向かって、「これは1mか?」と言わないように、われわれは正義の基準である神に向かって、正義について講釈を垂れる愚かなことはしない。
もしこれができないようであるならば、その人は、「神を超えようとした」。
神を超えようとする者は、神のライバルであるから、滅ぼされる。
神のライバルになれると考える傲慢な人に救いの可能性は一切残されていない。