日本人は、教理的に幼児3
ミレニアムの記事を読んでいるクリスチャンと、そうではない一般のクリスチャンの間には、どんな外国の神学校で勉強しても埋めることのできないほどの差ができる。
これは、ある支援者の言葉である。
ミレニアムでは、もっとも重要な「キリスト教の根幹」をピックアップして簡潔に述べているので、知らず知らずのうちに実力がつく。
しかも、現代社会への適用も具体的に行うため、実践的である。
フランシス・シェーファーが、スイスの『ラブリ』において若者を集めてキリスト教から世界を見る方法を教えた。
彼のもとで学ぶことは非常に有益である。かく言う私も彼の本から学んだ。
シェーファーは、ヴァン・ティルとラッシュドゥーニーから学んだが、しかし、ラッシュドゥーニーのポスト・ミレとセオノミーを積極的に取り入れなかった。
だから、世界をキリスト教的に解釈することの重要性しか教えなかった。
ポスト・ミレがないので、楽観的歴史観がない。
セオノミーがないので、具体性がない。
シェーファーは、福音派でも受け入れられた。
しかし、ラッシュドゥーニーは受け入れられなかった。
もちろん、ラッシュドゥーニーが異端とされたことはない。
そのため、福音派は、今でもセオノミーとポスト・ミレを受け入れていない。
シェーファーどまりなので、「世界をキリスト教的に解釈するのは大切だよね」で終わっている。
彼の『それでは如何に生きるべきか』という著書には、回答がない。
問題提起で止まっている。
シェーファーは、ドーイウェールトからも影響を受けた。
実質、シェーファーとは、ドーイウェールトの普及版みたいなものである。
なぜならば、ドーイウェールトは、ヴァン・ティルとセオノミーを否定し、人間理性を啓示の上に置いたからである。
ドーイウェールトの世俗哲学の分析と批判は、非常に正確で、正しい。
しかし、批判で終わった。彼が作り上げた世界観は、理性主義的であって、啓示主義的ではない。
それゆえ、世俗世界観を作り上げたカント主義に対抗できなかった。
結局、ヴァン・ティルとラッシュドゥーニーに行きつかない限り、意味はない。
その教育は、尻切れトンボである。
世俗世界観を明確に否定し、ライバルとなりうるキリスト教世界観を学ぶには、シェーファーやドーイウェールトではだめ。
ミレニアムでは、ヴァン・ティルとラッシュドゥーニーこそが解決である、という立場でやってきた。
私は、世俗思想、ヴァン・ティル、ラッシュドゥーニー、ゲイリー・ノース、そして、ドーイウェールト、その他の著書から学ぶために、膨大な時間とエネルギーを注いだ。
だから、ミレニアムに対抗するには、それらを消化したうえでそれらを批判できる人でなければ無理である。
他人が日本語で書いた批判書を読んで批判した気になっているレベルでは、われわれに対抗できない。
まず英語の原書を日本語なみにすらすら読める語学力、ギリシャ語とヘブライ語の知識は最低限の要件である。
それすら身についていない人が、ミレニアムを批判などできるわけがない。
ずぶの素人が黒帯10段の剣道の達人に切りかかって勝てるわけがないのと同然である。
ミレニアムでは、専門的な細かい知識については取り上げていないが、それらを学ぶには、サイトで取り上げている著書を自分で読んでほしい。
重要なエッセンスは十分に紹介されているのでバックナンバーを読んでほしい。
2015年12月10日
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