マザーテレサを受け入れるならば永遠の命を失う


会員の方で、バプテスト系の教会に行っていたが、牧師がマザーテレサを賛美するようになったのでやめた人がいる。

マザーテレサは、プロテスタント教会をローマ・カトリック化するための強力兵器である。

マザーテレサの外面的な活動を見て、プロテスタントとローマ・カトリックの間にある越えがたい教えの違いが次第に無視されていく。

これは恐ろしいことである。

プロテスタントが行為義認になったら、存在意味はまったくない。

マザーテレサがどういうことを言っているか見てみよう。

その著書Everything Starts From Prayer, Mother Teresa’s Meditations on Spiritual Life for People of all Faiths(すべては祈りから始まる。全宗教の信者の霊的生活に関するマザーテレサの瞑想)において彼女は次のように述べた。


私は「ヒンズー教徒はよりよいヒンズー教徒に、イスラム教徒はよりよいイスラム教徒に、カトリック教徒はよりよいカトリック教徒になれるように支援すべきである」と言ってきました。

神のことをイシュワルと呼ぶ人もいれば、アラーと呼ぶ人もいる。単にゴッドと呼ぶ人もいる。しかし、私たちが認めなければならないのは「愛し、愛されるというさらに大きな目的のために私たちを創造したのは、このお方だ」ということです。大切なのは、私たちが愛することです。私たちは祈りなしで愛することはできません。どのような宗教を信じていようと、私たちはともに祈らなければならないのです。

聖書では、異なる神々、つまり偶像のことを悪霊と呼んでいる。

供え物を食べる者は、祭壇にあずかるではありませんか。私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。(1コリント10・19-20)

イシュワルやアラーや仏像への礼拝は、実際のところ悪霊崇拝なのである。

「大切なのは、私たちが愛すること」だ、だから宗教を超えてともに祈ろう、というのは、悪霊崇拝への誘いである。

だから、マザーテレサとは、悪魔に人々を誘う人である。

このような人を牧師が教会でほめたたえるようになったら、その教会を出るべきである。

「愛こそすべて」教は、悪魔教である。

われわれは、愛は真理を犠牲にして成り立たないと信じる。

真理の土台があってはじめて愛が成立する。

聖書の神以外の神を礼拝する人と、われわれは一切関係がない。

私は自分の子どもに対するように言います。それに報いて、あなたがたのほうでも心を広くしてください。
不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。
キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。
神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」(2コリント6・13-18)

聖書は、偶像礼拝者と合同せよ、と言わない。「分離せよ」と言う。

「汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」

偶像礼拝者と調和して生きることを願うならば、神との調和が失われ、神に「受け入れ」られず、神はもはや「父」ではなく、われわれはもはや神の「息子、娘」ではない。

つまり、契約の家から追い出され、いのちの書から名を消される。

サタンは、マザーテレサを通じて、世界統一宗教に人々を誘っている。

このような策略を見抜いて、しっかりと対処できない牧師は、もはや牧師ではない。

信徒を狼に食われ放題にする偽牧師である。

 

 

2014年5月9日



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