被造物を究極の存在として恐れる人は自滅の道を歩んでいる
今まで自滅した人をたくさん見てきたが、同じ一つの理由がある。
「聖書への不信」である。
御言葉への疑いは、致命的な欠点であり、これ以上愚かな選択はない。
聖書への疑いは、創造者への信頼欠如につながり、その結果、被造物崇拝に至る。
人の評価や社会的評判、武力、軍事力、政治力、経済力、迷信、神秘的力を恐れるようになる。
何度言ってもその被造物礼拝は治らない。
「数字」を恐れる。
「13」とか「4」、「666」、「11」、「46」などを恐れる。
これらの数字を恐れているのは、イルミナティである。
イルミナティはユダヤ数秘術を信じているので、数字にこだわる。
中国人は、他人に生年月日や本名を教えたがらない。
なぜならば、呪いを恐れるから。
賭け事をする場合でも、占い用のダイアグラムを見ながら行う。
中国人や韓国人に支配されるようになってから、今のマスコミでは、朝の情報番組で占いが流れる。
占いとは、「運命の支配者は人格的神ではなく、宇宙に流れるある種の法則である」と信じる新興宗教である。
占い師とはその法則をマスターした教祖である。
聖書は、「運命を支配するのは、創造者ヤーウェであり、法則ではない」と教えている。
さらに「法則とは、神の支配のための道具である」とも教えている。
自然法則ですら、神の道具である。
これは、自動運転に任せている工場と同じである。
自動運転を定めたのは人間。人間は、その運転を手動に切り替えて、直接運転することもある。
これと同じように、神は、自動運転の道具として自然法則を定め、物体の運動がある一定の法則にしたがうように定められた。
しかし、自動運転を停止して、手動で行われる場合もある。
それを奇跡と呼ぶ。
奇跡とは、「自動運転のために定めた法則を一時的に停止し、神が手動で物体を動かすこと」である。
だから、自然法則が究極になることはない。
自然法則は、あくまでも「しもべ」であり、神の道具である。
それゆえ、もしわれわれが「自然法則」や「神秘的な法則」、「数の法則」などを恐れて、それを究極とするならば、偶像礼拝を行うことになる。
さきほど挙げた数字や方角、日取りを恐れるならば、われわれは偶像礼拝者になる。
われわれが恐れるべきは、「創造者なる神」おひとりである。
おみくじを引いて「凶」が出たと言って恐れることは、偶像礼拝である。
その場合「こんなの関係ない。神が祝福されるときは、何があっても祝福される」と信じるべきである。
そして「われわれクリスチャンは、神とともに世界の王なのだから、こういう法則を恐れるべきではない。神の御心にしたがって努力すれば、こんな法則など関係ない」と。
自然法は、偶像礼拝である。
神の創造の前に自然秩序があったとするギリシア思想やローマ・カトリック思想は偶像礼拝である。
自然秩序は究極ではない。
神が究極であるから、神にあって、われわれは自然秩序から自由である。
だからといって、10階建てのビルから飛び降りたら死ぬ。
なぜならば、「神の制定された自然法則に逆らっているから」。
しかし、もし神が「飛び降りなさい。けっして死ぬことはない」と言われたら、そのとおりにすべきである。
そのようなことはめったに言われないが。
「じゃあ、数秘術の法則にも従うべきではないか」と言われるかもしれない。
しかし、数に何らかの意味があると聖書には何も記されていないし、かえって占いが禁止されているから数秘術の法則にしたがってはならない。
自然法則は、「おおぞらは神の御手を示す」とあるので、科学によって探究すべき対象として「第2の啓示」である。
聖書と自然は、神の自己啓示であり、その探究を通じて得られた知識は尊重すべきである。
しかし、数秘術やカバラのようなものは、神秘主義であり、サタン崇拝に由来する。
われわれは、自然や人間、被造物を究極の存在として崇拝し、恐れるべきではない。
神おひとりを恐れるべきである。
われわれが政治家や権力者を恐れるべきなのは、ひたすらに「彼らが神によって合法的に立てられた器だから」でしかない。
被造物崇拝は、自らを亡ぼす。
被造物を究極の存在として恐れる人は、自滅の道を歩んでいる。
2016年6月10日
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