キリスト教は究極的な合理主義である2


1.

神は無から世界を創造された。

創造の前には何もなかった。

神お一人がおられた。

それゆえ、世界は神にとって完全に合理的である。

それは、OSを作ったプログラマーにとってそのプログラムの全体が合理的であるのと同様である。

バグがあれば、どこがおかしかったか探して修正できる。

挙動がおかしい箇所は、合理的な理由がある。(プログラミングの実際の現場では、合理的に説明できない場合もあるが)

「無からの創造」という教理は、必然的に「世界に関する神の全知」及び「世界の合理性」を導き出し、それゆえに「予測可能な未来」という教理も導き出せる。

プログラマーは、プログラムが特定言語の決まりにしたがって合理的に動くとわかっているので、ある操作をした場合に、どのような結果が得られるかあらかじめ予測できる。

キリスト教のもとでのみ、科学とくに応用科学が発展した理由が明らかになる。

キリスト教において「世界は合理的にできている」という前提が与えられるので、その法則を探り、その法則を利用して、大きな効果が得られると期待できる。

学校などで「キリスト教は科学の発展を妨害した」と教えられているが、まったく逆である。

近代科学の偉大な成果は、宗教改革勢力が支配した西欧及び米国において得られたのは偶然ではない。

2.

ノンクリスチャンの世界観において、自然は無から創造されたものではなく、「あらかじめ存在した」。

神はその自然の中で活動する一人のキャラである。

コンピュータで言えば、神はOSを創造したのではなく、あらかじめOSが永遠の昔から存在し、その中で神は一人のキャラであり、そのキャラが自分の領域を作って支配している、と考える。

それゆえ、神は、自然について全知でも権威でもない。

創造の世界の中では全知で権威ではあっても、自然についてはそうではない。

神も、自然という神秘と暗闇の中にいる有限な存在である。

「自然は絶対」「神秘は絶対」と信じるノンクリスチャンの思想は、非合理主義である。

このような非合理主義のもとでは、科学は長期的に発展しない。

「自然という神秘の世界において未来を予測することは不可能」なので、科学を長期的に発展させる動機が生まれない。

3.

キリスト教では、神は世界に関して完全な知識を持ち、それを完全に支配しておられると考える。

そこに「漏れ」はない。

神が罪を見逃すことはない。

すべての罪は、ことごとく「代価」を要求する。

それゆえ、「完全な贖い」が必要となる。

イエス・キリストという神が人となって、われわれの罪のために犠牲になり、あらゆる罪の贖いを成し遂げてくださったので、われわれは無罪化される。

もしイエス・キリストが単なる人間で、神でなければ、その犠牲は全宇宙をカバーできない。

被造世界を超越した神であるがゆえに、キリストの犠牲は全宇宙であらゆる時代に起きたあらゆる罪を包括的かつ個別的に処理できる。

逆にキリストが神であり、人間でなければ、人間の犠牲にはなれない。

人間は被造世界の長であり、神の御前で全被造物の運命を担って契約を結んだ代表者なので、キリストが人間にならなければ、この契約を成就できない。

キリストが人間として罪を処罰され、すべての律法を守られたので、人間は神との契約を成就できた。

それゆえ、アダムを代表者とするアダム族であることをやめて、キリストと契約を結び直し、キリスト族となった人は、契約遵守者の資格が得られる。

4.

このように、キリスト教のもとにおいてのみ、世界を合理的に解釈し、問題を合理的に解決できる。

キリスト教以外では、世界は神秘であり、世界を合理的に解釈できない。それゆえ、解決も神秘的な手段に頼らざるを得ない。

たとえば、「〇〇を何万回唱えれば救われる」という。

なぜ唱えると救われるのか、と尋ねても合理的な回答を得られない。

「罪を犯したら償いをする」のが合理的な解決であり、「〇〇を唱えること」は解決とは言えない。

神道はもともとキリスト教だった。

「お祓い」とは「お払い」であり、罪の代価を支払うことを意味した。

神道の象徴やシステムを調べれば、他の宗教のような「神秘的」なものではなく、合理的であるとわかるだろう。

今は、神秘宗教の影響を受けて変質しているが、もともとの日本人の信仰は合理的だった。

 

 

2019年9月13日



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