これが日本の本質中の本質である3
西洋に広まったキリスト教は、明示的である。
つまり、その名は「キリスト教Christianity」=「キリスト」の「教え」。
しかし、東洋に広まったキリスト教は、暗示的である。
「景教」=「日の都」の「教え」。
暗示的なものは、時間が経つとそれが何を指すかわからなくなる恐れがある。
しかし、どうも景教は終始暗示的である。
空海は恵果のもとで洗礼(灌頂)を受けた。
彼が開いたのは「真言宗」=「真」の「言葉」の「宗」。
真の言葉=「まことのことば」=イエス・キリスト。
「言われてみれば・・・」と、人のひらめきに依存している。
つまり、西洋のキリスト教は「明示的預言」に属し、東洋のキリスト教は、説き明かしを必要とする「暗示的預言」に属する。
もし日本が景教の国であるということが本当であれば、日本は「暗示的預言」に満ちているはず。
つまり「今までキリスト教ではないと思っていたが実はキリスト教であった」とわかるようなものに満ちているはず。
しかも、それが質的にも量的にもとんでもない規模で存在するはず。
なぜならば、景教は「日の都の国」=「日本国」が本場であるはずだから。
中国の景教徒は、「中国で景教はさかんだが、本場はさらに東にある」と考えていたはず。
実際、恵果が空海を2年で帰国させたのは「日本が本場だから」。
神が陰陽を重視されるならば、陽のキリスト教を西洋でさかんにする一方で、陰のキリスト教を東洋でさかんにされたはず。
陰キリスト教は、世界のキリスト教の半分を占めていたはず。
その巨大な規模に達した陰キリスト教の本場は実は日本であったわけだから、日本には陰キリスト教のものが質的にも量的にも大量に存在するはずである。
それが全国津々浦々に広まる神社であり、真言宗の寺院であり、さらに、日本人の精神に深く影響を与えている様々な習慣であろう。
説き明かす人々が現れれば、暗示的預言は一気に陽に回る。
それが今なのではないだろうか。
2016年9月11日
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