R・J・ラッシュドゥーニーの著書を読む前に間違って考えていたことがある。
・クリスチャンはどこまでも相手を愛すべきだ。
・相手がクリスチャンになるまで祈り続けるべきだ。
・相手がむちゃくちゃなことを言っても、許し、我慢すべきだ。
これらの間違った考えは、『聖書法綱要』の『責任』を読んで是正された。
http://www.millnm.net/millnm/respo.html
人間と人間の間には、必ず責任が伴う。
そして、一方が他方に対して負うべき責任には限度がある。
その責任を無限に背負うことは、無律法である。
こちらが相手に対して責任を果たしても、なおも相手が要求するならば、責任は相手側に移る。
1.
牛が男または女を突いて殺した場合、その牛は必ず石で打ち殺さなければならない。その肉を食べてはならない。しかし、その牛の持ち主は無罪である。(1)
しかし、もし、牛が以前から突くくせがあり、その持ち主が注意されていても、それを監視せず、その牛が男または女を殺したのなら、その牛は石で打ち殺し、その持ち主も殺されなければならない。(2)
もし彼に贖い金が課せられたなら、自分に課せられたものは何でも、自分のいのちの償いとして支払わなければならない。(3)
(出エジプト記 21・28-31)
(1) 突く癖があると知らない場合、牛が人を突いて殺した場合、その牛の持ち主に責任はない。責任は動物だけにある。
(2) 突く癖があると知っていた場合、牛が人を突いて殺した場合、責任は動物と、その牛の持ち主にある。
(2)では、持ち主は、牛の管理責任を問われる。
突く癖がある、つまり、危険が十分に予測されるにもかかわらず、必要な措置を取らない場合、管理不行き届きのゆえに、持ち主に殺人の罪が帰せられる。
(1)では、そのような癖があると知らなかったのであるから、管理責任は問われない。
ただ、人が死んでいるのであるから、その死の責任を牛に取らせなければならない。
理性のない牛ですら、責任を取らなければならないのであるから、今日の「未成年や精神病者の殺人者」を責任能力を問わない法律は聖書的ではない。
その未成年や精神病者が殺人の恐れがあることを十分に知っていた監督責任者も、殺人罪に問われる。
(3) (2)の場合の監督者の責任には、贖い金が許される。つまり、お金で解決できる。
これは、故意の殺人と異なる。故意の殺人については、贖い金は許されない。
あなたがたは、死刑に当たる悪を行なった殺人者のいのちのために贖い金を受け取ってはならない。彼は必ず殺されなければならない。(民数記35・31)
計画的・衝動的殺人は、必ず死刑にすべきである。
2.
ここでわかるように、責任は双方通行である。
一方だけが責任を負って、他方が取らなくていいということはない。
以前、私は、自分として最善を尽くしているにもかかわらず、むちゃくちゃな難癖をつける上司に対して黙々と服従していた。
黙って服従するのがクリスチャンらしさだと思った。
しかし、神の法は、「一方が責任を果たした場合、それ以上の無法な要求を突き付ける人に対して、責任を要求すべき」と教えている。
まともに接するのは、善人に対してだけである。
架空請求犯のように、要求された額を払うと、次から次へと請求を増やすような悪人には、法律を持ち出して対抗すべきである。
むちゃくちゃな要求をする上司に対しては「それ以上はできません」ときっぱりというべきだ。
契約範囲を超えた仕事を要求する業者には、「それ以上は別料金です」とはっきりというべきだ。
クリスチャンは、無限に相手を受け入れるべきだ、などという理想論は、ヒューマニズムであって、聖書的ではない。
3.
伝道の責任も有限である。
もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。(マタイ10・14)
「受け入れない」「耳を傾けない」、つまり、福音に対して拒絶するならば、「足のちりを払い落と」さなければならない。すなわち、「あなたに対しては責任を果たしたので、関係ありません。あなたが地獄に行っても私の責任ではない」と宣言せよということである。
どこまでも愛して、どこまでも我慢して、相手を悔い改めに導くべきだ、という伝道は、聖書的ではない。
4.
親族や職場に、自分勝手な人がいて、迷惑しているというケースがある。
そういう人に対しては、何度か戒めて直らないならば、追い出すか、自分から離れるべきだ。
際限なく付き合うと、頭がおかしくなり、こちらがトラウマを受ける。
自分だけが責任を負ってはならない。
相手の責任を問うべきだ。
相手が異常者であるとわかったら、すぐに離れるべきだ。
そのような相手のわがままを許せば、その場が無法地帯になり、他のメンバーが迷惑を被る。
何か「無法者だからこそ、愛が必要だ」みたいな理解がはびこっている。
われわれは、神の法の下にいる。
神の法よりも賢くなってはならない。神の法よりも愛情深くなってはならない。
相手が悔い改めて、努力しているならば別である。
故意に法を破り、故意にこちらの好意を利用したり、無視するようならば、手を切れ。
法秩序の維持こそ、聖書法の意味である。