人間の構成要素3


1.

「われわれのうちにいるイエス・キリスト」という表現は厳密に言うと間違いである。

イエス・キリストは天におられる。

イエスが天におられないと聖霊が下らない。


・・・もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。(ヨハネ16・7)

人類にとって正常な姿とは、聖霊が下り、聖霊にあってイエス・キリストが支配されることである。

イエス・キリストご本人は、天におられ、全世界を支配しておられる。

イエス・キリストと聖霊は一体なので、聖霊がわれわれのうちにおられるということは、イエス・キリストもおられるということである。

それゆえ、イエス・キリストの臨在はあくまでも「法的なもの」である。

イエス・キリストは、「法的に」われわれとともにおられる。

「実際的に」われわれとともにおられるのは、聖霊である。

2.

われわれの肉体は「聖霊の宮」つまり「神殿」であるから、われわれの肉体は、神殿が象徴する天である。

天には御父と、その右の座にイエス・キリストがおられ、「王と将軍」として存在する。

それゆえ、われわれの肉体にも、御父とイエス・キリストが「王と将軍」として「法的に」臨在される。

なぜならば、御父とイエス・キリストと聖霊は一体だからである。

聖霊にあって、御父とイエス・キリストはわれわれの肉体に「法的に」存在し、指令を発し給う。

われわれのたましいは、その指令を受けて、自分の肉体を動かし、ことを実行する。

神の栄光と御国の拡大のために行動するときに、この地上に神の御支配が広がり、サタンのそれは縮小される。

われわれの人生は、このためにある。

自分の王国拡大のために働こうとするクリスチャンがいれば、その人は、聖霊を通じて与えられる御父とイエス・キリストの命令を無視している。

自分の栄光、自分の権力、自分の権威、自分の資産、自分の家族、自分の仕事、自分の・・・

至聖所において聖霊にあって君臨しておられる御父とイエス・キリストの命令が届かず、自分がその真ん中に座り、神を右の座に座らせている。

逆である。

神が中央に座り、われわれが右の座に座らねばならない。

神は王、われわれは将軍である。

3.

また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。(黙示録22・19)

黙示録のみ言葉を少しでも改ざんする者は、「いのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる」、つまり、救いの取り消しである。

イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。(黙示録1・1)

黙示録の預言は「すぐに起こるはずの事」に関する。

誰にとって「すぐに起こるはず」なのか。

黙示録の読者である。

紀元1世紀に小アジアにあった7つの教会のクリスチャンたちである。

彼らにとって「すぐに」起きるというのであれば、黙示録は「紀元1世紀」に起きるはずである。

それなのに、現代のディスペンセーショナリズムの教会では、黙示録はわれわれの未来に起きるという。

大患難がやってきて、666の反キリストが世界を支配すると。

このような解釈は、実質的に「黙示録の改ざん」である。

だから、ディスペンセーショナリズムの解釈を採用するクリスチャンは、救われることを期待してはならない。

うちにおられる聖霊のみ声を聞いて、神を至聖所の中央に座らせ、自分は右の座に座れば、素直に解釈できるようになる。

 

 

2017年11月19日



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