試練を通じて神の全能性と主権を理解できる


(1)
体操が銀メダル、日本勢メダルラッシュ。

やはり祈らないと、日本はやられる。

まあ、はたから見れば「祈りによってオリンピックの結果が変わる」などおろかに見えるだろうが。

現象をすべて政治・経済・物理・心理的に見ることに慣れている現代人は、霊的な世界における戦いを知らない。

しかし、ヨブ記にあるように、世界の出来事は、神とサタンの会話によって決定される。


ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。
主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」
主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」
サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。
しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」
主はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。
ある日、彼の息子、娘たちが、一番上の兄の家で食事をしたり、ぶどう酒を飲んだりしていたとき、
使いがヨブのところに来て言った。「牛が耕し、そのそばで、ろばが草を食べていましたが、
シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
この者がまだ話している間に、他のひとりが来て言った。「神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「あなたのご子息や娘さんたちは一番上のお兄さんの家で、食事をしたりぶどう酒を飲んだりしておられました。
そこへ荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。私ひとりだけがのがれて、あなたにお知らせするのです。」
このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、
そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。(ヨブ記1・6-22)

われわれの世界で起きることの背後に、神とサタンの間の会話がある。

「降れば土砂ぶり」ということわざがあるように、不幸はしばしば立て続けに起こる。

同じような犯罪や事故が続く。

こういう現象を「偶然でしょう」とか「心理学的現象でしょう」などとしか解釈できないのが、現代人の愚かさである。

神は、「薬物に起因する交通事故」を悪霊が起こすことを許される場合がある。

悪霊は普段は縛られているが、このような許可が下りると、喜んで出ていって、類似事件や事故を起こす。

神は、われわれが傲慢にならないように、もしくは、われわれが極楽蜻蛉にならないように、もしくは、われわれを試し、鍛えるために、ある人の内部に悪霊が入り、その人をコントロールして事件や事故を起こすことを許される場合がある。

聖書には「神からの悪霊」という表現がたびたび出てくる。

われわれの周りで殺人事件や様々な事故が起こらないのは、神が抑制の恵みによってこれらの悪霊たちを縛ってくださっているからである。

われわれが傲慢になり、神を忘れ、自己満足に浸ると、神はこれらの悪霊の活動を許されることがある。

だから、普段から「悪より救い出したまえ」と祈るのである。

ヒューマニズムなる傲慢な宗教に毒された人類は、これ以上傲慢にならないため、神は抑制の恵みを抑え、悪霊に憑依された政治家を起こして、戦争につぐ戦争に国民を引きずりこむかもしれない。

このような状態に陥らないためにも、われわれは謙遜になって「主の守りがなければわれわれは一瞬でも生きていくことはできません」と告白し、悪から離れ、善を行い、神に熱心に仕えることである。

(2)
ただ、われわれの側でいくら熱心になっても、神が訓練のために事件や事故を起こされることがある。ヨブのように。

ヨブは最初「義人として歩んでいるので安全だ」というレベルの信仰しかなかった。

試練に会って、はじめて「神の全能性と主権」を理解した。

われわれのレベルではなく、超越したところで、すべては決定されることを理解した。

神は、われわれの思いとはまったく別の次元で、計画を立てられ、それを実行される。

「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。」(ヨハネ3・8)

神は何にも支配されず、完全に自由である。

そして、われわれは、神の下にいて、その御思いに振り回されるものである。

しかし、われわれには文句を言う権利はない。

なぜならば、神はわれわれに対して絶対的な主権を持っておられるから。

われわれの側で、神を規定することは絶対に許されない。

(3)
信仰がここまで進んだ人は、神の学校でかなり進歩している。

今、福音派などにおいて、神は人間の道具になっている。

これほどまでの冒涜に神は耐えておられる。

しかし、忍耐にも限度がある。

神は人間の主であることをいやというほど思い知らせるであろう。

われわれは謙遜に主の僕として聖書に記された御心に従おう。

 

 

2012年8月1日





 

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