御言葉ほど取り扱いに注意すべきものはない
群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。
しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。
すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください」と言った。
そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」(マタイ14・23-31)
被造物としての人間にとって最大の義務とは「信じること」である。
疑う人は、自分が主人になっている。
だから不信仰は革命である。
神を神として礼拝せず、自分の主権を確立することである。
弟子たちは、イエスが全能であることを疑った。
重力を創造された方は「水の上を歩く」ことがおできになる。
イエスは超越者なのである。
アプリケーションソフトを作ったプログラマーがそのソフトに支配されることがないように、この世界の創造者はこの世界に働くあらゆる法則に支配されず、それらを超越している。
「風を見て、こわくな」ったのは「イエスはこの世界の法則を超越していない」と告白するのと同義である。
ペテロの、水の上を歩きたいという願いに対してイエスはOKを出された。
「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
イエスは「来なさい」と言われた。
イエスがOKを出されたということは、「できる」ということである。
イエスが「できる」と言われたのに、「できないのではないか」と思うことは、イエスを主権者として否定することである。
イエスに対して、人間は「あなたができると言われたら、必ずできます!」と「常に」言わなければならないし、信じなければならない。
そこに少しの疑いでも差し挟むと、とたんにイエスの力はその人のために働かなくなる。
ペテロは怖くなったと同時に沈みかけた。
われわれが神の力を発揮するには、少しの疑いも心に浮かばないようにしなければならない。
われわれは、疑いが起きると同時に「ただの人」になる。
神の力を発揮する技術とは「疑わない技術」である。
周囲の状況を見て「ダメなんじゃないか」と思う人は、まだ未熟であり、訓練が必要である。
自分が思いたいことを自由に思っているようでは、われわれは「信仰の人」ではなく、「肉の人」であり、弱い。
疑いを心に浮かばせないためには、どうしたらよいのか。
疑いが起きそうならば「それでも私は信じます」と言うとよい。
2.
御言葉に関しては、われわれには疑う自由はない。
疑う人と議論しても無駄である。
御言葉は「あらゆるものを切り裂く両刃の剣」である。
天地が滅んでも御言葉だけは残る。
不信仰な人に対しては「聖書にこう書いてある」と宣言するだけでよい。
それに反論するならば、その人は御言葉によって切り裂かれる。
聖書に対する不信を表明したら、その人は、決定的なミスを犯したのである。それ以降、人生は呪いの連続である。
御言葉は両刃の剣であるから、自分が不信仰になったら自分をも滅ぼす。
「聖書にこう書いてあるが、本当だろうか」と疑ったら、その剣は自分のほうに向かい、自分を切り裂く。
「同性愛も愛情の表現の一種だ」という人は、「同性愛は罪である」と示す御言葉によって切り裂かれる。
御言葉ほど取り扱いに注意すべきものはない。
御言葉と矛盾するような教えを唱える人は、御言葉によって絶命する。
ちょっと刃先に触れただけで指や手を落とすような鋭い剣。
これが聖書である。
2019年6月6日
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