交友関係について


思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。(1コリント15・33)

1.

自らすすんで麻薬をやろうとする人はほとんどいない。

だいたいの人が、交友関係の中で麻薬に手を出す。

売人は、金持ちを狙っている。

そのため、スポーツ選手、芸能人、音楽関係者などに近づく。

麻薬をやっている人々の仲間に入ると、それまで麻薬に抵抗感があった人も次第に心のハードルが下がっていく。

交友関係の恐ろしさである。

誰と付き合うかは、人生において、極めて重要な要素である。

悪人は悪人とつながっているので、一人の悪人と親しくなると、さらに悪い人が近づいてくる。

以前、常習的に嘘をつく人と仕事をしたことがある。

何が真実で、何が嘘なのかわからなくなるので、ものすごく疲れる。

結果を見るまで、信用できないので、常に緊張を強いられる。

その人と別れてからもしばらくの間、自分も嘘をつくことになれてしまった。

悪習が伝播したのである。

恐ろしいことだ。

彼は、さらに悪い人を次々と連れてきた。

こういう人々と付き合うと、ただ振り回されるだけで、実質的な利益を得られない。

結局、損失だけが残る。

2.

罪に対するハードルが低い人とは付き合わないほうがいい。

とくに堕落したクリスチャンとは付き合ってはならない。

私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。(1コリント5・11)

以前、メッセージを頼まれて月一回訪問していた教会の家庭集会があった。

そこでびっくりしたのだが、一人の教会員が「私は今でも仏壇に手を合わせます」と言った。

このことを主任牧師に言ったところ何も反応がなかった。

これも驚きであった。

偶像礼拝をする人を教会員として受け入れている。こんなことがあってよいのかと。

罪が明らかになった後でもその人を受け入れるならば、自分も同じ罪を犯していることになる。

結局、この教会から去ることになったのだが、手を切ることができてよかったと思っている。

クリスチャンは互いに一つの体の一部である。

同じ血液が流れている。

一部に悪い血液が流れているならば、その血液はいずれ自分のほうにもやってくる。

そして、全体が汚染される。

異端の教えを信じる人は偶像礼拝者である。

その人を切り離さない教会は、偶像礼拝の教会になる。

長年の友人でグノーシス主義の教えを信じていることが明らかになったので、交わりを絶った人がいる。

何年友人であったとか、どれだけお世話になったかとか、情が深いとか、まったく関係ない。

「そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない」のである。

3.

罪を犯しているが明らかになっていない人の場合はどうするのか。

クリスチャンの場合、隠していてもいずれ明らかになる。

おおいかぶされているもので、現わされないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。
ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。(ルカ12・2-3)

悔い改めていない罪は、必ず明らかにされる。

断交するかどうかの判断は、明らかになった後である。

その罪が明らかになっていない段階で切ることはできない。

ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。・・・(1コリント4・5)

主は、必ず来られる。つまり、神は必ず裁きをつけられる。

「あの人は、いやらしい顔つきをしている」というだけでは評価できない。

具体的な行動が明らかにならないうちに裁いてはならない。

しかし、明らかになったら、裁かねばならない。

放置すると、全体が腐る。

あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。(1コリント5・6)

 

 

2018年7月23日



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