ガンジーやマザーテレサを聖人と呼ぶクリスチャンがいる。
しかし、彼らはクリスチャンではない。
素性を調べれば一目瞭然である。
人間的な見方からすると、ノンクリスチャンの善行は素晴らしい。
たとえば、孤児を養い、病に苦しむ人のために働くノンクリスチャンはすばらしい。
しかし、神から見ると、ノンクリスチャンの善行は、救いにはいっさいカウントされない。
…汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。(テトス1・15)
人間から見て、立派で聖人に見える人も、もし信仰を受け入れないならば、その全体が汚れている。
人間を人間たらしめているもっとも優れた資質である知性や良心すらも汚れている。
だから、天国に行く資格はまったくない。
善行を行っても、その善行に付随する罪がその人を地獄に落とす-ポイントとして評価される。
たとえば、せっかく善行を行っても、その善行を自慢する気持ちが罪としてカウントされ、そのために刑罰にあう。
ノンクリスチャンの善行は、完璧に掃除された部屋の中を泥靴で歩きまわりながら、病人を世話する人のようなものである。
動けば動くほど部屋が汚れる。
もちろん、人間的に見れば、その汚れよりも病人を看護したことのほうがカウントされ、世間的には高い評価を受ける。
しかし、神の目線から見ると、その汚れの部分がマイナス評価になって、永遠の刑罰に値すると判断される。
神は絶対的な聖さを求められるので、人間の善行は「救いに関しては」無意味である。
イエス・キリストの救いを受け入れない善良なノンクリスチャンは、その善行すらも汚れとしてカウントされるので、聖人と呼ばれるに値しない。
イエス・キリストの救いを受け入れた不良のクリスチャンは、イエス・キリストという全身を覆う衣服を着ているので、完璧に聖いとみなされる。
もちろん、確信犯的に罪を犯すクリスチャンは契約から追い出されるので、ノンクリスチャンである。
神の法を否定し、悔い改めず、罪に苦しまないクリスチャンは実質ノンクリスチャンであるから、契約の対象外になる。
本物のクリスチャンは罪が大嫌いである。
罪を犯すと、ものすごく後悔し、ひたすら神の赦しを求め苦悩する。
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』(ルカ18・13)
だから、本物のクリスチャンは、常に神にあわれみを乞い続ける。
本物のクリスチャンは「悲しむ人」である。
悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。(マタイ5・4)
いわゆる大航海時代に南米を侵略し、原住民を奴隷にしたスペイン人は、クリスチャンではない。
本物のクリスチャンは、イエス・キリストの贖いを受けているのですべてが聖い。
きよい人々には、すべてのものがきよいのです。(テトス1・15)
人間的に見れば欠点だらけだが、神の目線ではすべてが聖い。
なぜならば、神はその人本人を見るのではなく、その人の全身を覆っているイエス・キリストをご覧になるから。
天国は、死後に入るところではなく、現在入るところである。
信仰を告白し、洗礼を受けてクリスチャンになったら、天国に入った。
その人は、全身をイエス・キリストによっておおわれている。
だから、すべてが聖いとみなされる。
ガンジーやらマザーテレサが聖人であるというような評価は、人間的であり、聖書的ではない。
こういう判断のミスは、教会を誤謬に巻き込むことになるから要注意である。