御言葉に対する接し方はその他への接し方と完全に異なる



中国共産党の手口:
問題食品を通報する人を全員逮捕→食品問題存在しない。
通報する人を処罰→犯罪率ゼロの実現
習近平「2020年までに貧困撲滅」
国民のツッコミ「2020年になったら貧困層を大虐殺するんだ」
https://twitter.com/sun_koubun/status/920575194657308674

中国のやり方は、

「理想」→「現実をそれに合わせる」→「統計捏造」

このような方法は、神にしか属さない。

神は

「光あれ」→「すると、光があった」

全能者は、「言葉だけで」現実を変えられる。

しかし、非全能者である人間は、現実に自分を合わせなければならない。

OSのプログラマーは、OSを作って、そこに仮想現実を作る。

仮想現実の内部の者たちは、その仮想現実に自らを合わせなければならない。

アプリのプログラマーは、WindowsのOSに合わせてアプリを作る。

ここに次の関係が成り立つ。

OSのプログラマー=主

アプリのプログラマー=従

中華人民共和国は、疑似神である。

共産主義者は、神を取り除いて、自分が神になろうとしている。

だから、この世界が神の造ったOSであると認めない。

アプリのプログラマーが、OSの形式を無視して勝手なアプリを作るようなものである。

しかし、そんなものは動かない。

WindowsにはWindowsなりのアプリを作り、マックならマックなりのアプリを作る必要がある。

人間は、この世界において「言葉を発すれば、それが現実になる」ような存在ではないのだ。

共産主義者は、いずれ行き詰まる。

どだい、無理な話なのだ。

最初から、共産主義は、実現不可能なシステムなのである。

われわれ人間は、被造物であり、被造世界の形式にしたがって生きるべきである。

神は、「言葉だけで現実を作れる」全能者であるから、御言葉の約束を無視してはならない。

聖書において神が言われたことは「必ず実現する」。

この世界のシステムを作った方であるから、御言葉は絶対であり、ことごとく現実化する。

ここが被造物のあり方とまったく異なる点である。

だから、御言葉を扱う際には「これは本当なのだろうか。様子を見てから信じよう」という態度では足りない。

それは、偶像礼拝である。

アプリのプログラマーが、OSを絶対視するように、われわれは、神の御言葉を絶対視しなければならない。

聖書への疑いは、創造者に対する冒涜であり、反逆である。

われわれの御言葉に対する接し方は、その他への接し方と完全に異なる。

 

 

2017年10月18日



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