昔の日本への回帰
小津安二郎の『東京物語』は有名な映画だ。
昔の日本映画には品があった。
どんなに叫び、暴れるシーンでも品があった。
最近の日本映画はやたらにリアリティばかり強調して、動きが野卑である。
口調も野卑、野蛮、品がない、香港映画に出てくるような馬鹿っぽい演技。
現実離れした明る過ぎる会話。
日本映画はどうしてこんなに下品になったのか。
文学は、昔筑摩書房の全集で昔の作品をかなり読んだ。
不思議なことに、時代が下るにつれて、文章に品がなくなる。
分かりやすいのはいいが、文章に格調がなさすぎる。
志賀直哉は何度も何度も推敲し、文章の美しさを追求した。
現代文学はほとんど読まない。
昔の日本映画は、たとえば、黒沢や小津など、世界的に評価が高く、ハリウッドの巨匠ジョージ・ルーカスやスピルバーグなどは日本映画から多くのことを学んだと公言している。
どうして日本の文化はこうもダメになったのか。
それは、大衆に迎合したからだと思う。
目利きをうならせるようなものを作ろうとする人がいなくなったからだと思う。
1年や2年、10年や20年の人気を得るためのものではなく、100年、500年、1000年の長きにわたって評価されるような「本物」を作ろうとしていないからだと思う。
尼崎の大量殺人事件は、少数の無法者の暴力を恐れて服従し、攻撃すべき対象を外にではなく、身内に向ける現代人の臆病さを象徴する事件である。
いじめにも通じる。
日本が、無法者が勝利して、まともな人々が小さくなっているような社会になってしまったのは、統治者も一般人も「正義のために」社会を運営するという神の戒めを忘れたか無視しているからである。
自分の目標がすごく低いところにある。
「問題を起こせば、校長としての自分の名前に傷がつく」とか「退職金をもらえないかもしれない」とか。
「正義のためなら、自分の名誉や金を失ってもいい」という覚悟が武士道であり、日本人の普通の姿勢だった。
昔の日本人は、主君の仇を討つために、自分の命を顧みずに敵と戦った。
学校は、「国のために死ぬ」とかは悪い考え方で、「自分の幸福を実現するために自分は生きている」という考えがよいと教えた。
目標設定が、すごく低俗になった。
フリーメイソンのマッカーサーが、日本が再興してふたたび世界にとって脅威とならないように、骨を抜いた。
日本人は、戦後60年の間、フリーメイソンの価値観にしたがって、国家を軽んじる教育を受け、そのために品のない守銭奴になった。
このような低レベルの価値観の人間が世界に普遍的な文明を作れるはずもない。
われわれは、どこから落ちたかをよく考え、復帰のために努力しなければならない。
そのためにも、マッカーサーに汚される前の日本の真の姿を知らなければならない。
フリーメイソンの洗脳はかなり強く働いているので、大変な作業にはなるだろうが、必要なことである。
2012年10月24日
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