神学校の問題 by ゲイリー・ノース


エリヤはそこを立って行って、シャファテの子エリシャを見つけた。エリシャは、十二くびきの牛を先に立て、その十二番目のくびきのそばで耕していた。エリヤが彼のところを通り過ぎて自分の外套を彼に掛けたので、エリシャは牛をほうっておいて、エリヤのあとを追いかけて行って言った。「私の父と母とに口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから。」エリヤは彼に言った。「行って来なさい。私があなたに何をしたというのか。」エリシャは引き返して来て、一くびきの牛を取り、それを殺し、牛の用具でその肉を調理し、家族の者たちに与えてそれを食べさせた。それから、彼は立って、エリヤについて行って、彼に仕えた。(1列王記19・19-21)

あなたは、牧師になることを望んでいるとする。まず訓練を受けなければならない。神学校に行くべきだと考える。

警告:神学校は、10代や20代の早い頃に学期末レポートの書き方を学び、その特別な技術を一生の仕事にしようと決めた人々によって占められている。

神学校で教えている人々は牧会の成功者では無い。牧会ができる人は、牧会を続けるものだ。

神学校とは、経営に必要な十分な数の学生を集めることができないような地味な分野を専門として選んだクリスチャンの大学教授が教える場所なのである。


一時しのぎの施設


神学校は、アメリカの大学が神学的に堕落し、そのため牧師を訓練するのにふさわしくないと考えた少数の長老たちによって18世紀初頭に作られた。

この少数の人々は、当初「ログ・カレッジ」と呼ばれ、後にプリンストン神学校になった学校を創立した。彼らはこのプロジェクトを、 1812年の戦争の直前、 1811年に開始した。

神学校はアメリカの高等教育に対する一時しのぎの追加的施設でしかなかった。というのも、既存の大学が一つ一つ例外なく、 19世紀までにはヒューマニズム化、つまりユニテリアン化していたからである。

換言すれば、大学はギリシャ化した。これは、後に登場するギリシャ文字で表現される男女の友愛団体を意味するのではない。私は「大学は文字通り『ギリシャ化』した」と言っているのである。

つまり、自らの古典的な前提に忠実になったということである。大学は三位一体の教理を不要な仮説として切り捨てた。その後、大祖国戦争後の数年間の間に進化論者になった。ユニテリアンの神すらも捨ててしまったのである。

神学を教えていた学者たちは、自らが大学の卒業生であり、その方法論は大学において教えられたものである。

西洋の大学のカリキュラムは、常に古典文学とつながっていた。通常、プラトンやアリストテレス、キケロやタキトゥスは、少なくともモーセやエレミヤと同等の卓越した人物として教室で紹介されていた。

この事実は、合衆国憲法の承認をめぐる議論の中に現れている。パンフレットの作成者は「ヨシュア」や「ラザロ」ではなく「ブルータス」や「プブリウス」といった名前を名乗っていた。 11世紀および12世紀における大学の創設期から、主要な方法論は、 一種のアリストテレス主義であった。

神学校はギリシャと決別しなかった。ログ・カレッジの長老たちは、第2次大覚醒時代における福音伝道者でありリーダーであった。

その後継者たちは、リバイバルについては彼らほど熱心でなかった。その関心はむしろ学問に向けられた。彼らを模倣する多くの人々も、同じように学問に関心を向けた。

神学校は、大学がもはや与えることをしなくなった学科、すなわち、聖書の言語(特にヘブライ語) 、組織神学、説教技術、聖書解釈などのコースを人々に提供するために設立された。

問題は、これらの技術が高度に専門化され、それを教える教授たちもさらに高度に専門化されていたということにある。

ヘブライ語の教授たちは、他の多くの古代語にも通じていた。卒業後の3年間(または3ヶ月)ですっかり忘れ去るだろうと考えているような学生たちにヘブライ語を教えるよりは、他の言語を学ぶことの方に興味を覚えていた。

かくして「古物収集趣味」つまり「知識の習得自体が目的となってしまった学問」に陥る傾向がもともと存在していた。

同様に、組織神学の教授たちも、当時、哲学つまりヒューマニズムの専門事項の専門家であり、神学的な解説に、死せる異教の哲学者たちの難解な洞察を加味するのが常であった。

その良い例が、チャールズ・ホッジの3巻からなる『組織神学』である。これは、聖書の解説と同じくらいに、サー・ウイリアム・ハミルトンとの議論が頻繁に登場すると感じられ、非常に読みにくい。この本は未だに学生に割り当てられている。(今日、1873年の教科書を使用する学科が他にあるだろうか。)

神学校に存在するもう一つの問題は「証明済の学者たちの居場所と見なされている」ということにある。

神学校は、学生に入学の条件として、大学卒業を要求した。結局、教育を受けた牧師達、すなわち神の敵どもによって訓練され、正式に認められた人々が必要とされた。

1830年の牧師は、自由主義の教育を受けた人でなければならなかった。つまり、 アッティカ方言のギリシャ語、ラテン語、数学(特に幾何学)、古代の歴史、そしてその後にようやく組織神学の訓練を受け、これらの分野で熟達した人が必要とされていた。

ここにおいても、主要な神学の枠組みは、プロテスタントのスコラ学のそれ―すなわち、反宗教改革のスコラ学のアリストテレス主義に対するプロテスタントの反応である17世紀の神学の6つの場に基づくシステム―であった。これは今日でも変わらない。神学、人間学、キリスト学、救済論、教会論、終末論。

「〜学」は多いが、福音が少ない。倫理も多くない。創造論や聖書年代学、契約、信条は言うまでもない。

神学校の教授陣が厳しい試験をくぐり抜けていることを確実にするために、神学校は、神を憎む専任教授たちや聖書の「高等批評家」たちが教えるドイツの大学に入学することを候補者たちに強く求めた。

そして、神学校も一つ一つリベラル化していった。驚くべきことではないか。

[Christian Reconstruction, Vol. XIII, No. 4, July/Aug. 1989]

 

 

2016年7月4日



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